3. 前史

「国境」と「国界」

「くにざかい」は「国境」とも「国界」とも書くことができ、現在普通名詞として一般的なのは「国境」だが、本稿では区別のため「国界」と表記した。「国界」のほうが線を想起しづらいためでもある (国境では『国境線』を連想してしまう)。現在でも場所によってはそうだが、近代より前のサカイは点の集合であって、その間隔は遥かに粗い。読みは訓読の「くにざかい」でも音読の「コッカイ」でも、どちらでもかまわない。本稿の表題で音読しているのは単に語呂の問題である。

律令制における「国 (クニ)」やその下位の枠組みである「郡(コオリ/グン)」の原形は、律令体制が構築されるよりも前から存在し、のちにその中央集権組織 (ヤマト王権・大和朝廷) に取り込まれることになった、さまざまな地方勢力の版図にある。たとえば備前・備中・備後 (および美作) の原形は「吉備国」であり、上野・下野も「毛野国」が分割されたものだとされる。もっともそれらはあまりにも古く、文字による史料、あるいは史料そのものが非常に限られるため、具体的にわかることはほとんどない。

これを省いて大宝律令が成立した大宝元年(701) 以降をまとめると以下のような変動があった。記載がなければすべて『続日しょくに本ほん紀ぎ』による。

前史
年変動
大たい宝ほう2年(702) 3月17日越中えっちゅう国の一部 (頸くび城き・魚沼いおの(または『いおぬ』、 現在の読みは『うおぬま』)・古こ志し・蒲かん原ばらの 4郡) が越後国に編入された。
和わ銅どう元年(708) 9月28日越後えちご国に出羽でわ郡が設置された。既存の郡の分割ではなく、拡張された部分が正式に郡として建置されたものと考えられる。
(大宝2年(702) 4月15日以後) 和銅2年(707) 6月28日以前日向ひゅうが国の一部から薩摩さつま国が分置され、多た褹ね島 (多褹国、現在の種子島たねがしま) が建置された。『続日本紀』の大宝2年(702) 4月15日の記事には「筑紫七国」とある一方、和銅2年(707)6月28日の記事には具体的に「薩摩・多禰国司」(中黒は筆者が補う) があらわれる。なお、慶きょう雲うん3年(706) 7月28日の記事には「九国三島」とあって、ここに薩摩国・多褹 (禰) 島が含まれると考えることもできるものの、この時点では大おお隅すみ国がまだ成立していないので解釈が難しい。「九国」を仮に筑ちく前ぜん・筑ちく後ご・豊ぶ前ぜん・豊後ぶんご・肥ひ前ぜん・肥ひ後ご・日向ひゅうが・薩摩・対馬つしまとすると、「三島」は壱岐いき・多褹 (禰) だけになってしまうから足りず、「三島」を壱岐・多褹 (禰)・対馬とすれば「九国」が足りない。
和銅5年(712) 9月23日出羽国が建置された。明示はないが出羽郡が独立したものと解釈される。
和銅5年(712) 10月1日陸奥国の一部、最も上がみ・置おい賜たま (現在の読みは『おきたま』) の 2郡が出羽国に移された。
和銅6年(713) 4月3日丹たん波ば国から丹たん後ご国、備び前ぜん国から美作みまさか国、日向国から大隅国がそれぞれ分置された。なおこのときの大隅国は 4郡、のち桑原郡、天てん平ぴょう勝しょう宝ほう8年(756) 菱ひし刈かり郡が分置された。
霊れい亀き2年(716) 4月19日河内かわち国の一部、大鳥・和泉・日根の 3郡から和泉いずみ監が分置された。
養よう老ろう2年(718) 5月2日越前国の一部、羽は咋くい・能の登と・鳳至ふげし・珠す洲ずの 4郡から能登国、上総かずさ国の一部、平群へぐり・安房あわ・朝夷あさひな (現在の読みは『あさい』)・長なが狭さの 4郡から安房あわ国、陸奥国の一部、石いわ城き・標し葉は (近代の読みは『しねは』)・行なめ方かた・宇う太た・亘わた理りの 5郡から石城国・石いわ背しろ国がそれぞれ分置され、このとき常陸国の一部 (多た珂か郡、現在は『多た賀が』の一部) が菊きく多た郡として石城国に含められた (地理的に無理のある部分を誤りとした解釈による)。しかし石城国・石背国が史料上確認できるのは養老年間(717~724) に限られるため、間もなく陸奥国の戻され、常陸国の一部もそのまま陸奥国になったと考えられる。
養老5年(721) 6月26日信濃しなの国の一部 (郡は不明) から諏方 (諏す訪わ) 国が分置された。
天てん平ぴょう3年(731) 3月7日諏訪国が信濃国に戻され、その一部となった。
天平12年(740) 8月20日和泉監が河内国に戻され、その一部となった。
天平13年(741) 12月10日安房国が上総国に戻され、その一部となった。また能登国は越中国に編入されその一部となった。
天平勝宝9年(757) 5月8日能登国・安房国・和泉国が再び分置された (改元は年始までさかのぼるため記事上は天平宝字元年)。
弘仁14年(824) 3月1日越前国の一部、加賀・江沼の 2郡から加賀国が建置された (日本紀略)。
天長元年(824) 10月1日:多褹島が廃止され、大隅国に編入された (『日本後紀』)。

上記の天長元年(824) 多褹島の廃止をもって 68国は確定し、以後固定化された。本稿で扱うのはこれ以後の変動である。