ここでは、戦国期から織豊期にかけて発生した陸奥・常陸国界 (国境) の変動と、そのまさに変動したエリアである依上保について分析しています。

そもそもどこか?

変動の舞台は、現在の茨城県 だい町にほぼ相当する。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

Fig.111 依上保 (陸奥・常陸国界): 文禄4年(1595)
Fig.111 依上保 (陸奥・常陸国界): 文禄4年(1595)
天保郷帳・国絵図の村々
近世 常陸国 久慈郡※1
近世 陸奥国 白川郡

つまり変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が推定される変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界である。変動前の国界は大子町の南限には重ならず、少し手前にある。『天保常陸国絵図』で示せば、以下に示す部分である。

Fig.658 天保常陸国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.658 天保常陸国絵図 (国立公文書館所蔵)

大子町は茨城県の北西端にある町で、中央を久慈川が貫流し、その支流・滝川に形成された袋田の滝でよく知られる。月待の滝 (大生瀬川) も美しい。また、福島県との県境に位置する八溝山は茨城県の最高峰であり、中腹には坂東三十三観音のひとつ、日輪寺がある。久慈川に沿って JR水郡線が通っている。

月待の滝
月待の滝
月待の滝
外大野のしだれ桜
外大野のしだれ桜
外大野のしだれ桜
JR水郡線
JR水郡線
JR水郡線
注釈

要因と経過

よりかみは、古代の陸奥むつ国 白河郡 依上郷が私領化したと考えられる荘園であり、「」(『ほう』とも読む) は荘園の一種である。以下は和名類聚抄の第7巻で、左に陸奥国 白河郡の各郷が示され、末尾に依上郷がある。

Fig.724 倭名類聚抄 元和3年(1617) 古活字版(20巻本) 第7巻 (国立国会図書館所蔵)
Fig.724 倭名類聚抄 元和3年(1617) 古活字版(20巻本) 第7巻 (国立国会図書館所蔵)

起源からわかるように、依上保は陸奥国の一部であって、中世を通して戦国期に差しかかるまでは一貫して陸奥国として把握されていた。史料上は、建武元年(1334) 3月18日付『後醍醐天皇りん案』※1に「当国依上保」(当国 = 陸奥) として初めてあらわれ、以後、おうえい6年(1399) 8月28日付『足利満貞預ケ状写』※2に「同国依上保内鮎河上中両郷」(同=陸奥国)、応永31年(1424) 6月13日付『足利持氏充行状』『上杉憲実施行状』と 19日付『上杉憲実施行状』※3に「陸奥国依上保内依上三郎庶子分」など、ぶんしょう元年(1466) 5月1日付『旦那職売券』※4に「奥州のよりかミ」とあるなど、陸奥国として把握されている。ぶんめい18年(1486) 10月26日付『慶乗・慶儀連署奉書』※5に「奥州依上保」とあるのが、国名を含む文書としては最後である。

依上保は、南北朝期・室町期を通じて陸奥国・白河結城氏の支配下にあったと考えられている。もっとも、ほかの地域と同様にその地盤はかならずしも安定したものではなく、依上保も収奪の対象になったらしい。また、次第に常陸国・佐竹氏から圧迫を受けるようになって、えいしょう7年(1510) には白河結城氏の内紛に乗じた佐竹よしきよが本格的に侵攻した※6。以後、当地はその勢力下に置かれることになり、永正7年(1510) 8月21日付『佐竹義舜書状写』※7をはじめとして、多くの文書が佐竹氏から発給されることになる。ただし、それら文書に国名はあらわれない。在地勢力の発給文書では、区別の必要がなければ国郡はふつう記載されないので、これがただちにその帰属の曖昧化を意味するわけではないが、少なくとも史料上、依上保が陸奥・常陸のどちらにあるのかは判然としなくなる※8

佐竹氏はその後、よしのぶのときに豊臣秀吉へ帰順し、ぶんろく4年(1595) にその所領を安堵された。このとき依上保の村々は常陸国 久慈郡として把握され、近世以後の陸奥・常陸国界は確定する。文禄3年(1594)『常州検地覚書』※9によれば、安堵の前提となる検地は、同年(1594) 10月から 12月末まで「久慈郡・多珂郡・鹿島郡・行方郡・新治郡・真壁郡・志多郡・河内郡・筑波郡・茨城郡・那賀郡」(常陸国各郡) と「奥州之内南郷」「下野之内武茂・同松野・同茂木」で行われた。

Fig.529 秋田藩家蔵文書 12 常州諸士文書 (A280-2-12・秋田県公文書館所蔵) 所収 文禄3年(1594) 常州検地覚書(部分)
Fig.529 秋田藩家蔵文書 12 常州諸士文書 (A280-2-12・秋田県公文書館所蔵) 所収 文禄3年(1594) 常州検地覚書(部分)

ここで「奥州之内」とされるのは「南郷」に限られ、依上保は記載されていない。つまり、依上保は常陸国各郡に含まれ、その後の経過を見れば、すでに久慈郡に含めて把握されていることがわかる。文禄2年(1593) 6月20日付『高野山奥院常灯料寄進受取状写』※10には「常陸国佐竹保内」という表記もみられる。なお南郷は、佐竹氏が依上保の次に狙っていた地域であって、完全に掌握できたのは豊臣政権の後ろ盾を得てからのため※11、本領とは区別されて常陸国とはみなされなかった。

注釈

データシート

データシート (依上保: 陸奥・常陸国界)
変動地域依上保、ただし文禄3年(1594) 時点の範囲
要因戦国期~織豊期の軍事勢力による支配地域化、および豊臣政権によるその承認
曖昧化の時期戦国期~織豊期
変動の確定時期文禄3年(1594)

ちなみに...

当然ながら「もしも」の話だが、依上保が陸奥国のままだったとしたら、現在の茨城県の最高標高は 1022メートルから 882メートルになってしまう。というのも、前述のように茨城県最高峰は当地の八溝山であって、その標高が 1022メートルだからだ。当地が陸奥国のままなら、自然な流れであれば福島県に含まれることになるので、えいぞうむろという 882メートルの山が茨城県の最高峰になってしまうのである。ちなみに筑波山 (女体山) の標高は 877メートルなので、これよりわずかに高い程度にすぎない。

更新履歴

内容

:

  • 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。

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  • 『国絵図と国界』の一部として、中川忠英旧蔵 常陸国絵図についての記述を『近世国絵図総覧』に移行。

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  • 同、すでに『近世国絵図総覧』と重複していた『天保常陸国絵図』の外観を削除。

:

  • 同、修正。

:

  • 同、追補。

:

  • 同、新規作成。