ここでは、古代から中世にかけて、さらには近代に入って発生した播磨・美作国界 (国境) の変動と、そのまさに変動したエリアである木曽について分析しています。
そもそもどこか?
変動の舞台は、現在の長野県 木曽郡に岐阜県 中津川市の一部を加えた範囲である。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が推定される変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界である。『天保信濃国絵図』で示せば、以下の部分である。

天保郷帳・国絵図の村々
近世 信濃国 筑摩郡①※1
近世 信濃国 筑摩郡②※1
- 217. 黒沢村※22※11※23
- 218. 王滝村※11
- 219. 滝越村※11※24※25
- 220. 三尾村※26※11※23
- 221. 岩郷村※11※27※28
- 222. 上松村※29※8※11
- 223. 荻原村※30※4※11
- 224. 須原村※31※4※11
- 225. 長野村※32※11
- 226. 殿村※33※11
- 227. 野尻村※8※34※4※11
- 227a. 与川村※11※35
- 228. 三留野村※11
- 228a. 柿其村※11※36
- 229. 田立村※37※11
- 230. 妻籠村※38※39※8※4※11
- 230a. 蘭村※11※40
- 231. 山口村※11
- 232. 馬籠村※41※4※11
- 233. 湯舟沢村※11※42
注釈
要因と経過
木曽はもともと美濃国に属していた。もっとも、国府から離れた木曽は未開発の辺境であって、その所属は当初から曖昧だった。
貞観年間(859~877) には、吉蘇・小吉蘇両村の所属をめぐって美濃国と信濃国が対立したことがある。『日本三代実録』の元慶3年(879) 9月4日の記事※1には以下のように書かれている※2。
美濃・信濃国をして、県坂上岑を以て国堺と為さしむ。県坂山岑は美濃国恵奈郡と信濃国筑摩郡の間に在り。両国は古来境堺を相争いて、いまだ決する所に有らず。貞観中勅して左馬権少允従六位上藤原朝臣正範・刑部少録従七位上靫負直継雄等を遣りて、両国司と地に臨みて相定めしむ。正範等旧記を検して云うには「吉蘇・小吉蘇両村は是恵奈郡絵上郷の地なり (中略) 今此の地は、美濃国府を去ること行程十余日、信濃国に最も逼近しと為す。若し信濃の地と為さば、何ぞ美濃国司をして遠く関に入りて、彼の路を通せしめんや」と。是に従りて、正範の定むる所に従う。
令美濃信濃國以縣坂上岑為國堺縣坂山岑。在美濃國恵奈郡与信濃國筑摩郡之間。兩國古来相争境堺未有所決。貞観中敕遣左馬権少允従六位上藤原朝臣正範・刑部少録従七位上靱負直継雄等、与兩國司臨地相定。正範等検舊記云、吉蘓小吉蘓兩村、是恵奈郡繪上鄕之地也 (中略) 今此地、去美濃國府行程十餘日、於信濃國㝡為逼近。若為信濃地者、何令美濃國司遠入閞通彼路哉。由是従正範所定。

ここで参照されている「旧記」は『続日本紀』のことであり、和銅6年(713) 7月7日の記事と和銅7年(714) 閏2月1日の記事※3には以下のように書かれている※4。 美濃・信濃二国の堺、径道険阻にして往還艱難なり。仍て吉蘇路を通す。 美濃信濃二國之堺、徑道險阻徃還艱難、仍通吉蘓路。 美濃守 従四位下 笠朝臣麻呂に封七十戸・田六町を賜い、少掾正七位下 門部連御立・大目 従八位上 山口忌寸兄人に各位階を進め、匠 従六位上 伊福部君荒当に田二町を給う。吉蘇路を通するを以てなり。 賜美濃守從四位下笠朝臣麻呂封七十戶田六町、少掾正七位下門部連御立・大目從八位上山口忌寸兄人、各進位階、匠從六位上伊福部君荒當賜田二町。以通吉蘓路也。
これらによれば、美濃・信濃両国は古くから国界がどこであるか争いが絶えず、藤原朝臣正範・靫負直継雄らが現地に向かい、両国司と検分した。このとき正範は旧記 (『続日本紀』) を参照して、国界を「県坂上岑」とし、吉蘇・小吉蘇両村は美濃国の恵奈郡 絵上郷に含まれるものとした。これは、和銅7年 (714) 笠朝臣麻呂らが前年に「吉蘇路」を開通させたことを理由に報賞されていることによる。国府から 10日以上もかかり、しかも信濃国もすぐそばであるところに道を通したのは、その場所が美濃国でなければほかに理由がない、というものだ。
この記述によって、木曽や「吉蘇路」(木曽路) は本来、美濃国の一部でだったことがわかる。しかし同時にここで判明するのは、それらはすでに曖昧になっていて、美濃国司さえ把握できない状態になっていたということだ。国府からの距離の問題もあるが、新しく通した道もあまり利用は多くなく、関心が向くような場所ではなかったのだろう。その後も状況としてはあまり変わらなかったようで、寛弘年間(1004~1012) 成立の『拾遺和歌集』には、以下のような歌が収録されている。
女のもとにつかはしける
なかなかに
云ひも放たで 信濃なる 木曽路の橋の かけたるやなぞ 源頼光
和歌に関してはイメージで詠まれることもあって評価が難しいものの、逆にいえば、木曽は信濃であるということがすでに共有されたイメージだったとはいえる。
このほか『吾妻鏡』 の治承4年(1180) 9月7日の記事※6には、幼い木曽義仲 (源氏木曽冠者義仲) は乳母の夫によって「信濃国」へ逃がされ、養育されたとあり、この「信濃国」は吉川本と呼ばれる系統の写本では「信濃国木曽」となっている※8。また文治2年(1186) 3月12日の記事※7に引用されている『乃貢未済庄々注文』(同年 2月付) の信濃国に「大吉祖庄」がある。
一方で、元徳元年(1329) と推定される『小木曽庄三ケ保検注雑物沙汰注進状』※10には「美濃国小木曽御庄」※9、文正元年(1466) の日付を持つ興福寺 梵鐘銘※10には「美濃州慧那 (恵那) 郡木曽庄」とあるなど、木曽が美濃なのか信濃なのかは一定せず、記述者の認識や時期、言及している地点に依存している。
| 年 | 記述 | 史料 | 所収等 |
|---|---|---|---|
| 寛弘年間 (1004~1012) | 「なかなかに 云ひも放たで 信濃なる 木曽路の橋の かけたるやなぞ」 | 『拾遺和歌集』 | 既述、年は和歌集成立時期 |
| 治承4年(1180) | 「信濃国木曽」 | 『吾妻鏡』(叙述部分) | 既述 |
| 文治4年(1188) | 「浅ましや さのみはいかに 信濃なる 木曽路の橋の かけわたるらむ」 | 『千載和歌集』 | 年は和歌集成立時期 |
| 文治2年(1186) | 「信濃国」 「大吉祖庄」 | 『乃貢未済庄々注文』 | 既述 |
| 建長3年(1251) | 「信濃路や | 『続後撰和歌集』 | 年は和歌集成立時期 |
| 徳治2年(1307) | 「信州木曽御嶽山禰宜職」 | 『諏方旧跡志』所収 | 『信濃史料叢書 中巻』(1969) (c.186) |
| 延慶3年(1310) | 「美濃国小木曽庄」 | 『伏見上皇院宣』※12 | 『岐阜県史 史料編 |
| 正中3年(1326) | 「信濃なる | 『続後拾遺和歌集』 | 年は和歌集成立時期 |
| 元徳元年(1329) | 「美濃国小木曽御庄」 | 『小木曽庄三ケ保検注雑物沙汰注進状』 | 既述 |
| 元徳元年(1329) | 「美濃国小木曽庄」 | 『美濃国小木曽荘雑掌地頭代連署和与状』※13 | 『真壁町史料 中世編3』(1994) (c.186) |
| 貞和2年(1346) | 「美濃国小木曽庄」 | 『足利直義下知状』※14 | 『真壁町史料 中世編3』(1994) (c.166) |
| 観応2年(1351) | 「美濃国小木曽庄」 | 『真壁光幹置文』※15 | 『真壁町史料 中世編1』(1983) (c.27) |
| 延文4年(1359) | 「谷風に 雲こそのぼれ 信濃路や 木曽の御坂の 夕立の空」 | 『新千載和歌集』 | 年は和歌集成立時期 |
| 応永19年(1412) | 「美濃州遠山庄馬籠村」 「濃州遠山庄馬籠村」「美濃國惠那郡遠山莊馬籠村」 | 『紙本墨書大般若経奥書』※16 | 『信濃史料 第3巻』(1953) |
| 永享11年(1439) | 「北美州 | 白山神社 | 『信濃史料 第8巻』(1957) |
| 宝徳元年2年(1449) | 「美濃国 | 『康富記』※18 | 『岐阜市史 史料編』(1976) |
| 文正元年(1466) | 「美濃州慧那 (恵那) 郡木曽庄」 | 興福寺 梵鐘銘 | 既述 |
| 文明5年(1473) | 「信濃木曽殿」 (人名) | 『東寺執行日記』※19 | 『信濃史料 第9巻』(1957) (c.77) |
| 天文4年(1535) | 「信州木曽庄浄戒山定勝禅寺」 | 『茂彦善叢賛貴山恵珍頂相』※20 | 『信濃史料 第11巻』(1958) |
| 天文18年(1549) | 「信州木曽荘浄戒山定勝禅寺」 | 『信濃奇勝録』 所収 定勝寺鐘銘※21 | 『新編信濃史料叢書 第13巻』(1976) |
| 天文19年(1550) | 「信州木曽辺」 | 『三木直頼書状』※22 | 『信濃史料 第11巻』(1958) (cc.253-254) |
| 天文23年(1554) | 「信州木曽黒沢」 | 黒沢本社 鰐口銘※23 | 『信濃史料 第8巻』(1957) (c.38) |
| 永禄7年(1564) | 「信州木曽上松」 | 『玉林院記録』※24 | 『信濃史料 第12巻』(1958) (c.294) |
| 永禄11年(1568) | 「信州木曽通 宿中」 | 『武田家伝馬手形写信玄朱印状案』※25 | 『小田原市史 史料編 原始・古代・中世1』(1995) (#626, c.375) |
| 天正12年(1584) | 「信州木曽」 (人名、木曽義昌) | 『羽柴秀吉書状案』※26 | 『信濃史料 第16巻』(1961) (cc.93-94) |
| 天正19年(1591) | 「信州木曽庄大瀧鄕」 | 『瀧文書』※27 | 『信濃史料 第17巻』(1961) (cc.236-239) |
| 慶長5年(1600) | 「信州木曽中諸侍」 | 『玉林院記録』※28 | 『信濃史料 第18巻』(1962) (cc.239-240) |
近世の木曽は信濃国 筑摩郡として把握された。しかし正保信濃国絵図では筑摩郡とは別に「木曽」があって、郡界の墨線によって筑摩郡と分けられている。また元禄国絵図では木曽は筑摩郡に含められているが、郡界の墨線の代わりに橙線が引かれているほか、各村は「木曽」を冠称し、引き続き区別されている。天保信濃国絵図ではこの橙線はなくなるものの「木曽」の冠称は変わらない。これらから浮かび上がるのは「木曽は木曽」という概念で、美濃か信濃かというよりは、その狭間のどちらでもない地域として存在していたのかもしれない。
最終的に近世 信濃国に含められたのは、戦国期から織豊期にかけての支配が反映されたことによると考えられるが、その実態は明らかではない。一般に武田氏の配下に入った木曽氏によって支配されていたと理解されているものの、勢力範囲やその国郡認識がどのようなものであったのか、具体的にわかる史料は残っていない。
なお、古代の美濃・信濃国界 (変動前の国界) がどこだったのかについては、諸説あって結論は出ていない。本稿では、木曽川の上流域全体が本来は美濃国だったとして、分水嶺に古代の国界を設定した。
注釈
木曽谷・木曽谷・木曽郡
ひとことに「木曽」といっても、その範囲は文脈によって異なることがある。「木曽谷」「木曽路」「近世の木曽」の3つを図に示せば以下のとおりである。

木曽谷
木曽谷とは、木曽川上流の渓谷とこれを含む地域をいう。木曽谷は国界が変動した範囲に等しく、本来は鳥居峠を含む分水嶺までの木曽谷全体が美濃国だった。
木曽谷には現在 (いわゆる平成の大合併以降) の市町村では長野県 木曽郡 南木曽町・大桑村・上松町・王滝村・木曽町・木祖村と、岐阜県 中津川市の一部が含まれる。鉄道の駅でいえば、田立・南木曽・十二兼 (以上、南木曽町)・野尻・大桑・須原 (以上、大桑村)・倉本・上松 (以上、上松町)・木曽福島・原野・宮ノ越 (以上、木曽町)・藪原 (木祖村) の各駅を含む区間に相当する (王滝村は通らないため駅も存在しない)。
木曽路
木曽路とは、中山道 (中仙道) のうち木曽を通る区間のことであり、その区間を含む周辺を含めて漠然と呼ぶこともある。その場合の木曽路は、「木曽谷」に塩尻市の一部である旧・楢川村 (平成の大合併で編入) を加えた地域にあたる。鉄道の駅では奈良井・木曽平沢・贄川の各駅が加わる。街道としては鳥居峠の前後に存在する谷を含めるということだろう。鳥居峠以北 (奈良井川の谷) の区間が短いのは谷の入口 (出口) の標高差による。中央高地の一部をなす松本平 (松本盆地) のほうが当然標高は高い。
木曽路の宿場は、馬籠・妻籠・三留野・野尻・須原・上松・福島・宮腰 (宮越)・薮原・奈良井・贄川の 11宿で、中山道六十九次としては贄川から数えて 33番目から 43番目までとなる。
近世の木曽
国絵図で木曽とされる一体を近世の木曽と呼ぶことにすれば、その範囲には「木曽路」にさらに松本市の一部である旧・奈川村 (平成の大合併で編入) を加えた地域にあたる。正保国絵図では郡と同格だが接尾辞のない「木曽」に含まれる範囲であり、元禄・天保国絵図では「木曽」を冠称する各村が含まれる範囲である。旧・奈川村は千曲川 (信濃川) 水系梓川の上流域であって木曽川水系ではないので木曽谷ではなく、木曽路とは無関係で本来は地域的な関係性も存在しない。
旧・奈川村の範囲まで近世の木曽に含められた理由としては、野麦峠を経由して木曽と飛騨を結ぶ通路上にあって木曽路に接続していることや、木曽谷と同様に森林資源に恵まれていたことなどが考えられるが厳密な経緯はわかっていない。木曽が信濃国として把握された段階で、単にその範囲に含まれていただけかもしれない。
明治12年(1879) に、長野県における郡区町村編制法の施行にともなって筑摩郡は東西に分割され、近世の木曽は西筑摩郡となった。その後、昭和23年(1958)、奈川村は南安曇郡へ移って西筑摩郡から離れた。地理的・日常的に結びつきのない行政単位に含められたことから相当の不便があったようで、奈川村自身からの請願によるものだった。
木曽郡
正保国絵図に存在した「木曽」が元禄国絵図で消えて以来、正式な行政単位としての木曽は存在しなかったが、昭和43年(1968)、西筑摩郡は木曽郡へ改称され、ここで復活することになった。木曽郡の範囲は基本的に地域単位としての「木曽路」に相当するが、この時点で長野県から岐阜県に移っていた神坂地区 (近世 湯舟沢村にあたる) は含まれず、さらに現在は馬籠・山口地区 (同、馬籠村・山口村) も含まれない。
(参考) 県境の変動: 昭和33年(1958) / 平成17年(2005)
現在の木曽郡に神坂・馬籠・山口地区 (近世 湯舟沢・馬籠・山口の各村) が含まれないのは、いわゆる「昭和の大合併」と「平成の大合併」で県をまたぐ合併があり、これらの地区が西筑摩郡 (木曽郡) どころか長野県からも離れたことによる。
まず昭和33年(1958)※1、長野県 西筑摩郡 神坂村のうち湯舟沢地区は岐阜県 中津川市に、残る馬籠地区 (詳細には峠・馬籠・荒町の 3地区) は同郡 山口村にそれぞれ編入された。それぞれ近世 湯舟沢村・馬籠村に相当する (以下の左)。
そして山口村も、およそ半世紀後の平成17年(2005)※2、岐阜県 中津川市に編入された。つまりこれをもって、近世 信濃国 筑摩郡 湯舟沢・馬籠・山口の各村に相当する部分は、長野県を離れて岐阜県に含まれることになった (以下の右)。
当然、これらの時点で行政手続上も日常的にも「信濃国」や「美濃国」は使われていなかったが、近世 信濃国 筑摩郡 湯舟沢・馬籠・山口の各村は、ある意味 (領域的には) 本来の美濃国へ戻ったことになる。編入の背景としては、生活圏が中津川市と一体化しており、さまざまな理由で長野県である必然性がなかったためだった。
なお一般に、昭和の大合併の時期は各自治体の独立意識はかなり強く、また、はっきりとした実力行使が行われる時代でもあった。合併方針をめぐって賛成派と反対派の間で対立することが多く、これに県境の変更が絡むとなお拍車がかかった。神坂村のケースでも住民間の争いは激化し、長野・岐阜両県の対立も加わって事態は紛糾した。結局、当初は神坂村 (近世 湯舟沢村・馬籠村) 全体の編入が目指されたものの、最終的には近世 湯舟沢村に相当する地区だけが岐阜県 中津川市に編入された。
しかし、残留した (させられた) 馬籠地区も、中津川市と生活圏が一体であるということには変わりなく、「平成の大合併」を待って編入が実現した。このとき山口村全体が編入されたため、近世 山口村に相当する部分も岐阜県に移って、これが現在の長野・岐阜県境に反映されている。
注釈
更新履歴
内容
:
- 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。
:
- 『国絵図と国界』の一部として、追補。
:
- 同、追補。
:
- 同、追補。
:
- 同、新規作成。







