28.2. 織豊期~江戸初期

織豊期には新方・下妻鬼怒川東流部・葛西の各地域で国界が変動した。

Fig.142 新方 ・ 下妻 ・ 葛西 (下総 ・ 武蔵国界): 織豊期〜江戸初期
Fig.142 新方・下妻・葛西 (下総・武蔵国界): 織豊期〜江戸初期

28.2.1. 新方

古代の利根川 (ふるすみ川~元荒川) と中世の利根川 (大落古利根おおおとしふるとね川) に挟まれた地域 (にいがた) は、古代の利根川の流量が減少して国界が曖昧化した結果、江戸初期までに武蔵国として把握されるようになった。

Fig.079 新方 (下総 ・ 武蔵国界): 慶長17年(1612)
Fig.079 新方 (下総・武蔵国界): 慶長17年(1612)

(1) 下総国 下河辺庄の展開

平安末期までに、下総しもうさかつしか郡からしま郡にかけては広大なしもこう庄が成立した。広大であるのは未開発の荒れ地がそのままに取り残されていたからであり、利根川や渡良瀬川が乱流する文字どおりの氾濫原には、不安定な低湿地に無数の沼が散在していた。北部の台地上を「野方」、低地の河川流域を「河辺」と呼び、これらに対する新しい土地として古代の利根川 (古隅田川~元荒川) と中世の利根川 (古利根川) の間が「にいがた」と呼ばれた、とされる※1

史料に初めてあらわれるのは久安きゅうあん2年(1146)『平つねたね寄進状写』※2で、そう御厨のほうとして「西限下川邊境」が示されている。ただし単なる地名なのか、荘園の名称なのかはわからない。吾妻鏡あずまかがみには、ぶん2年(1186) 3月12日の記事に引用されている『乃貢のうぐ未済庄々注文』(同年 2月付) の下総国に「八条院御領 下河辺庄」がある。

Fig.543 吾妻鏡 第6巻 北条本 (部分 ・ 国立公文書館所蔵)
Fig.543 吾妻鏡 第6巻 北条本 (部分・国立公文書館所蔵)
また文治4年(1188) 6月4日の記事に引用されている『権右中弁ごんうちゅうべんさだなが朝臣あそんほうしょ』(同年 5月12日付) にもはちじょういん領に「下総国下河辺庄」が含まれる。成立過程の詳細ははっきりしないが、弟のまさよしとともに『吾妻鏡』に頻出する下河辺ゆきひらが開発し、天皇※3ふくもんいん※4に寄進して成立、八条院※5に継承されたととみられる。

八条院領はけんりゃく元年(1137) 以後、春華しゅんかもんいん※6・順徳天皇※7と受け継がれたが、じょうきゅうの乱 (承久3年,1221) に関係して鎌倉幕府に一時没収されたのち、もりさだ親王※8に返還され、あんもんいん※9へ継承された。さらに弘安6年(1283) 安嘉門院が死去すると、亀山天皇※10がその遺領の獲得に成功してだいかくとうの財源根拠となった。げん4年(1306)『大覚寺統所領目録』※11には「庁分」(八条院直轄領) として「下総国千葉庄」とともに「下河辺」が含まれる。八条院領はさらにだい天皇 (南朝) へ継承された。

一方『もんよう』に所収の『みょうこういん庄園目録』※12の「八条左大臣家遺領」に「下総国下川辺庄」があり、記載の形式から領家しき (下位の領有権) と考えられる。建暦元年(1211) 八条院が死去したとき、その遺志に基づいて所領の一部は九条よしすけ※13に譲られた。その中に含まれ、下河辺庄の本家職 (上位の領有権) は皇室に留保される一方で領家職は九条良輔に継承され、さらに妙香院に寄進されたとみられる。同じく『門葉記』に所収の、けん4年/えんげん2年(1337)『みょうこういんもんぜき領并別相伝所領目録写』※14にも「下総国 下河辺庄」が含まれる。

家譜によれば、下河辺行平の父・ゆきよしは小山まさみつの弟なので、隣接する当地を開発・独立して下河辺氏を名乗るようになったとみられる。鎌倉中期になると、幕府直轄地となって執権・北条氏から派生したかねさわ氏に支配は移ったと考えられ、さらに一部はしょうみょう寺に寄進されてその寺領となった。ぶんえい12年(1275)『金沢さねときゆずりじょう※15によれば、実時は妻の藤原氏に「下総国下河辺庄前林・河妻両郷并平野村」を一代に限って譲っている。また、えいにん2年(1294)『下河辺荘村々じっけん目録』※16には前年に行われた実検に基づき「下河辺御庄下方内称名寺〻領村〻」が書き上げられている。なお、建武4年(1337)『妙香院門跡領并別相伝所領目録写』には「地頭請所」とあり、領家の関与は完全に限定されている。

延元元年(1336) 3月22日付『後醍醐天皇綸旨』(模写) によれば「□□国下河辺荘内春日部郷地頭職」(□□国 = 下総国) が春日部氏に与えられた。

Fig.725 延元元年3月22日付 後醍醐天皇綸旨 模写(国立公文書館所蔵『武州文書 御府内下』所収)
Fig.725 延元元年3月22日付 後醍醐天皇綸旨 模写(国立公文書館所蔵『武州文書 御府内下』所収)

またこの人物はその後戦死したとみられ、同年 8月30日の後醍醐天皇綸旨※17によれば、その旧領 (春日部判官重行跡) は「若法師以下」に安堵された。したがって南北朝期も荘園として維持された部分があって、南朝の貴重な財源になったようだ。とはいえ、その末期までには実態を失い、武家による支配論理に組み込まれて鎌倉府 (鎌倉公方) の直轄地となったと考えられる。

金沢氏・称名寺

金沢氏は北条氏 (執権北条氏) 派生の家系。兄にあたる鎌倉幕府 第3代執権 北条やすときから武蔵国 六浦むつら庄を与えられた北条さねやすからはじまるとされるが、実質的にはその子、さねときからともされる。しょうみょう寺はこの実時が庄内金沢郷に建立した念仏堂が起源といい、同じく実時の創建と伝わる「金沢文庫」が境内にある。

注釈

(2) 変動の要因と時期: 慶長17年(1612)

鎌倉公方・足利しげうじと関東管領・上杉のりただの不和・対立に端を発したきょうとくの乱は、関東全域を戦乱に巻き込み、享徳3年(1455) からぶんめい14年(1483) まで 28年間に及んだ。この間に京都ではおうにんの乱 (応仁・文明の乱) がはじまって、そして終結している。

この乱では成氏が本拠地を鎌倉からに移し、古河公方が成立した。古河が選ばれた理由は、政治的には上杉陣営が相模さがみから武蔵むさし上野こうずけへと勢力を広げるのに対して、古河公方が下野しもつけ下総しもうさの在地勢力(小山氏・宇都宮氏・結城氏など)を支持基盤とし、これに常陸ひたちの佐竹氏や上野東端の岩松氏などを加える体制だったためと考えられるが、地理的な背景も大きかったと思われる。古河は利根川・わた川・おもい川が集まる低湿地に面して天然の要害をなしている。同時にこれらの河川は、接近する常陸川とともに物流の大動脈であって、古河はこれらを束ねる要衝だった。さらにこうした背景に加えて、直轄地に組み込まれていた下河辺庄は重要な経済基盤になり得たからだろう。

中世の利根川本流は双方が睨み合う前線として機能した。一方で、それによって切り離されたにいがた地域は武蔵むさし国と一体性が増して、混乱のなか岩付 (いわつき) の太田氏の勢力下に入ったとみられる。近世中期から後期にかけての地誌『大沢猫の爪』※1では「新方」を武蔵国の側から見て「新しい地」の意味としている。さらにその後、伊豆から相模・武蔵へと勢力を拡大する後北条氏 (小田原北条氏) の領国に組み込まれたのだろう。

大沢猫の爪

当町の義、永禄の頃までは下総の地なりしを、元亀・天正の間、岩槻城主・太田十郎氏房の時とも、またその以前、太田右衛門大夫道灌の領内の節とも、西は古利根川、東は元荒川のうちを武州埼玉郡に付属せしゆへ、新しき方というをもって領名とせしなり。新方領元郷は粕壁町なり

当町之義永禄之頃迄𛂞下総の地成しを、元亀・天正之間岩槻城主太田十郎氏房之時共又其以前太田右衛門大夫道灌之領内之節共、西𛂞古利根川東𛂞元荒川の内を武州埼玉郡𛂈付属せしゆへ新しき方と云を以領名とせし也、新方領元郷𛂞粕壁町也

直接的な史料で国界の変動を確認できるのは江戸期に入ってからで、けいちょう17年(1612) ながみや村 大光寺領の検地帳※2の表紙には「武州新方之庄長宮」とある。『 新編武蔵国風土記稿・新編相模国風土記稿』によれば、同じ慶長17年(1612) に大竹・大森・新方須賀・大戸・大谷・大口・増長の各村でも検地があったとされる。これらはすべて近世 岩槻領だが、慶長18年(1613)『大畠村御年貢可納おさむべき割付』※3の存在から、前提として新方領の大畑村でも検地が行われたことがわかる。ほかの各村も同時期と考えていいだろう。

ただし後述の葛西地域などと同様、史料上の乱れはあって、関八州 (現在の関東地方) の国郡の典型がここにもあらわれている。

注釈

(3) 天保郷帳・国絵図の村々

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Fig.079 新方 (下総 ・ 武蔵国界): 慶長17年(1612)
Fig.079 新方 (下総・武蔵国界): 慶長17年(1612)
内容史料
慶長17年(1612)最勝院の所在地を「武州新方糟壁」としている。「下総国下河辺 (下川辺)」の地名とも共存していることから明確な区別がわかる。『関東八州真言宗連判留書案』※4
天正19年(1591)寺院所在地が「武蔵国崎西郡平方郷」となっている。『平方林西寺 寺領朱印状』※5
慶安元年(1648)寺院所在地が「武蔵国葛飾郡大泊村」となっている。おおどまり安国寺 寺領朱印状 』※6
じょうきょう2年(1685)寺院所在地が「武蔵国埼玉郡大泊村」に更新されている。
慶安元年(1648)寺院所在地が「武蔵国葛飾郡大房村」となっている。おおふさ浄光寺 寺領朱印状』※7
貞享2年(1685)寺院所在地が「武蔵国埼玉郡大房村」に更新されている。
かんぶん4年(1664)「下総国 葛飾郡之内 拾五箇村」として おん村・大竹村・大道村・三野宮村・大森村・新方須賀村・大戸村・大谷村・大口村・長宮村・ましなが村・まし村・ましとみ村・中曽根村・新方袋村が含まれ、下総国のままとなっている。『阿部正春宛領知判物・目録』※8
近世 武蔵国 埼玉郡 新方領※1
41.
中島村
42.
ましもり
43.
ましばやし
44.
小林村※2
48.
おおふさ
53.
大林村
54.
大里村
55.
弥十郎村※3
56.
おおよし
57.
むこうばたけ※4※5
58.
川崎村※6
59.
大松村
60.
大杉村
61.
船渡村※7
62.
福島新田※4※8※9
63.
おおどまり
64.
平方村※10
65.
谷原新田※4※11※12
66.
大枝村※13
67.
かみ
68.
下間久里村
88.
大畠村※13※14
89.
備後村
90.
中野村※13
91.
大場村※13
98.
市野割村※13※15
99.
粕壁宿※16※17
100.
谷原新田※4
近世 武蔵国 埼玉郡 岩槻領
69.
おん※18※19
69a.
恩間新田※20※21
71.
大竹村
72.
おおみち
73.
三之宮村※22
87.
大森村
92.
にいがた※23
93.
大戸村
94.
大谷村
95.
大口村
96.
薄谷すすきや※24
97.
増田新田※20※25
101.
長宮村※26
102.
ましなが
116.
大野島村
117.
まし
118.
ましとみ
119.
中曽根村※27
999a.
上大増新田※4※28
999b.
下大増新田※4※28
近世 武蔵国 埼玉郡 越ケ谷領
45.
花田村
46.
越ケ谷宿※29※30
47.
大沢町
70.
袋山村
近世 武蔵国 埼玉郡 百間領
120.
新方袋村※31
武蔵田園簿

正保武蔵国郷帳に相当する史料として東京大学史料編纂所が所蔵・公開する『武蔵田園簿』があり、翻刻・校訂されたものとしては『武蔵田園簿』(1977, 北島) がある。

Fig.731 武蔵田園簿 第7巻 (部分 ・ 東京大学史料編纂諸所蔵)
Fig.731 武蔵田園簿 第7巻 (部分・東京大学史料編纂諸所蔵)
注釈