28.2. 織豊期~江戸初期
織豊期には新方・下妻鬼怒川東流部・葛西の各地域で国界が変動した。

28.2.1. 新方
古代の利根川 (古隅田川~元荒川) と中世の利根川 (大落古利根川) に挟まれた地域 (新方) は、古代の利根川の流量が減少して国界が曖昧化した結果、江戸初期までに武蔵国として把握されるようになった。

(1) 下総国 下河辺庄の展開
平安末期までに、下総国 葛飾郡から猿島郡にかけては広大な下河辺庄が成立した。広大であるのは未開発の荒れ地がそのままに取り残されていたからであり、利根川や渡良瀬川が乱流する文字どおりの氾濫原には、不安定な低湿地に無数の沼が散在していた。北部の台地上を「野方」、低地の河川流域を「河辺」と呼び、これらに対する新しい土地として古代の利根川 (古隅田川~元荒川) と中世の利根川 (古利根川) の間が「新方」と呼ばれた、とされる※1。
史料に初めてあらわれるのは久安2年(1146)『平常胤寄進状写』※2で、相馬御厨の四至牓示として「西限下川邊境」が示されている。ただし単なる地名なのか、荘園の名称なのかはわからない。『 吾妻鏡』には、文治2年(1186) 3月12日の記事に引用されている『乃貢未済庄々注文』(同年 2月付) の下総国に「八条院御領 下河辺庄」がある。 国立公文書館所蔵)

八条院領は建暦元年(1137) 以後、春華門院※6・順徳天皇※7と受け継がれたが、承久の乱 (承久3年,1221) に関係して鎌倉幕府に一時没収されたのち、守貞親王※8に返還され、安嘉門院※9へ継承された。さらに弘安6年(1283) 安嘉門院が死去すると、亀山天皇※10がその遺領の獲得に成功して大覚寺統の財源根拠となった。嘉元4年(1306)『大覚寺統所領目録』※11には「庁分」(八条院直轄領) として「下総国千葉庄」とともに「下河辺」が含まれる。八条院領はさらに後醍醐天皇 (南朝) へ継承された。
一方『門葉記』に所収の『妙香院庄園目録』※12の「八条左大臣家遺領」に「下総国下川辺庄」があり、記載の形式から領家職 (下位の領有権) と考えられる。建暦元年(1211) 八条院が死去したとき、その遺志に基づいて所領の一部は九条良輔※13に譲られた。その中に含まれ、下河辺庄の本家職 (上位の領有権) は皇室に留保される一方で領家職は九条良輔に継承され、さらに妙香院に寄進されたとみられる。同じく『門葉記』に所収の、建武4年/延元2年(1337)『妙香院門跡領并別相伝所領目録写』※14にも「下総国 下河辺庄」が含まれる。
家譜によれば、下河辺行平の父・行義は小山政光の弟なので、隣接する当地を開発・独立して下河辺氏を名乗るようになったとみられる。鎌倉中期になると、幕府直轄地となって執権・北条氏から派生した金沢氏に支配は移ったと考えられ、さらに一部は称名寺に寄進されてその寺領となった。文永12年(1275)『金沢実時譲状』※15によれば、実時は妻の藤原氏に「下総国下河辺庄前林・河妻両郷并平野村」を一代に限って譲っている。また、永仁2年(1294)『下河辺荘村々実検目録』※16には前年に行われた実検に基づき「下河辺御庄下方内称名寺〻領村〻」が書き上げられている。なお、建武4年(1337)『妙香院門跡領并別相伝所領目録写』には「地頭請所」とあり、領家の関与は完全に限定されている。
延元元年(1336) 3月22日付『後醍醐天皇綸旨』(模写) によれば「□□国下河辺荘内春日部郷地頭職」(□□国 = 下総国) が春日部氏に与えられた。

またこの人物はその後戦死したとみられ、同年 8月30日の後醍醐天皇綸旨※17によれば、その旧領 (春日部判官重行跡) は「若法師以下」に安堵された。したがって南北朝期も荘園として維持された部分があって、南朝の貴重な財源になったようだ。とはいえ、その末期までには実態を失い、武家による支配論理に組み込まれて鎌倉府 (鎌倉公方) の直轄地となったと考えられる。
金沢氏は北条氏 (執権北条氏) 派生の家系。兄にあたる鎌倉幕府 第3代執権 北条泰時から武蔵国 六浦庄を与えられた北条実泰からはじまるとされるが、実質的にはその子、実時からともされる。称名寺はこの実時が庄内金沢郷に建立した念仏堂が起源といい、同じく実時の創建と伝わる「金沢文庫」が境内にある。
注釈
(2) 変動の要因と時期: 慶長17年(1612)
鎌倉公方・足利成氏と関東管領・上杉憲忠の不和・対立に端を発した享徳の乱は、関東全域を戦乱に巻き込み、享徳3年(1455) から文明14年(1483) まで 28年間に及んだ。この間に京都では応仁の乱 (応仁・文明の乱) がはじまって、そして終結している。
この乱では成氏が本拠地を鎌倉から古河に移し、古河公方が成立した。古河が選ばれた理由は、政治的には上杉陣営が伊豆・相模から武蔵・上野へと勢力を広げるのに対して、古河公方が下野・下総の在地勢力(小山氏・宇都宮氏・結城氏など)を支持基盤とし、これに常陸の佐竹氏や上野東端の岩松氏などを加える体制だったためと考えられるが、地理的な背景も大きかったと思われる。古河は利根川・渡良瀬川・思川が集まる低湿地に面して天然の要害をなしている。同時にこれらの河川は、接近する常陸川とともに物流の大動脈であって、古河はこれらを束ねる要衝だった。さらにこうした背景に加えて、直轄地に組み込まれていた下河辺庄は重要な経済基盤になり得たからだろう。
中世の利根川本流は双方が睨み合う前線として機能した。一方で、それによって切り離された新方地域は武蔵国と一体性が増して、混乱のなか岩付 (岩槻) の太田氏の勢力下に入ったとみられる。近世中期から後期にかけての地誌『大沢猫の爪』※1では「新方」を武蔵国の側から見て「新しい地」の意味としている。さらにその後、伊豆から相模・武蔵へと勢力を拡大する後北条氏 (小田原北条氏) の領国に組み込まれたのだろう。
大沢猫の爪 当町の義、永禄の頃までは下総の地なりしを、元亀・天正の間、岩槻城主・太田十郎氏房の時とも、またその以前、太田右衛門大夫道灌の領内の節とも、西は古利根川、東は元荒川のうちを武州埼玉郡に付属せしゆへ、新しき方というをもって領名とせしなり。新方領元郷は粕壁町なり |
当町之義永禄之頃迄𛂞下総の地成しを、元亀・天正之間岩槻城主太田十郎氏房之時共又其以前太田右衛門大夫道灌之領内之節共、西𛂞古利根川東𛂞元荒川の内を武州埼玉郡𛂈付属せしゆへ新しき方と云を以領名とせし也、新方領元郷𛂞粕壁町也 |
直接的な史料で国界の変動を確認できるのは江戸期に入ってからで、慶長17年(1612) 長宮村 大光寺領の検地帳※2の表紙には「武州新方之庄長宮」とある。『 新編武蔵国風土記稿・新編相模国風土記稿』によれば、同じ慶長17年(1612) に大竹・大森・新方須賀・大戸・大谷・大口・増長の各村でも検地があったとされる。これらはすべて近世 岩槻領だが、慶長18年(1613)『大畠村御年貢可納割付』※3の存在から、前提として新方領の大畑村でも検地が行われたことがわかる。ほかの各村も同時期と考えていいだろう。
ただし後述の葛西地域などと同様、史料上の乱れはあって、関八州 (現在の関東地方) の国郡の典型がここにもあらわれている。
| 年 | 内容 | 史料 |
|---|---|---|
| 慶長17年(1612) | 最勝院の所在地を「武州新方糟壁」としている。「下総国下河辺 (下川辺)」の地名とも共存していることから明確な区別がわかる。 | 『関東八州真言宗連判留書案』※4 |
| 天正19年(1591) | 寺院所在地が「武蔵国崎西郡平方郷」となっている。 | 『平方林西寺 寺領朱印状』※5 |
| 慶安元年(1648) | 寺院所在地が「武蔵国葛飾郡大泊村」となっている。 | 『大泊安国寺 寺領朱印状 』※6 |
| 貞享2年(1685) | 寺院所在地が「武蔵国埼玉郡大泊村」に更新されている。 | |
| 慶安元年(1648) | 寺院所在地が「武蔵国葛飾郡大房村」となっている。 | 『大房浄光寺 寺領朱印状』※7 |
| 貞享2年(1685) | 寺院所在地が「武蔵国埼玉郡大房村」に更新されている。 | |
| 寛文4年(1664) | 「下総国 葛飾郡之内 拾五箇村」として 恩間村・大竹村・大道村・三野宮村・大森村・新方須賀村・大戸村・大谷村・大口村・長宮村・増長村・増戸村・増富村・中曽根村・新方袋村が含まれ、下総国のままとなっている。 | 『阿部正春宛領知判物・目録』※8 |
