ここでは本サイト『近世国絵図総覧』の対象である「近世国絵図」と、これを包含する「国絵図」の基本を説明しています。

そもそも国絵図とは

国絵図とは、文字どおりに「国」(令制国) を単位として作成された「絵図」である。山や川などの自然物を背景として、行政上の最小単位である村々と城下 (城下町) がその位置に配置され、さらに主要街道とその交通情報、国界・郡界 (国境・郡境) といった境界に関係する情報が書き込まれたものである。村々のオブジェクトにはその村の生産性を示す石高 (村高) が記載され、必要に応じて「枝郷」などの情報が付記されている。

略史

記紀によれば、律令体制下においても国絵図は作成されたとされる。しかし、断片的な記録に残るのは作成指示や献上があったことを伝えるだけで、どのような内容だったのかさえはっきりしない。もちろんそのとき作成されたはずの絵図は現存しない。全国を描いた絵図には「行基図」が知られているが、文章で示された位置関係や距離情報から作成できるようなものであり、ベースに国絵図が存在するのかどうかはわからない。

鎌倉~室町期は、国絵図が作成されたという記録自体が見当たらない。鎌倉・室町両幕府の政権としての性質、特にどこまで全国を広く支配したのかやその強度・深度に関する議論はともかく、土地の支配に関しては荘園・公領 (国衙領) に基づく鎌倉幕府と、その成立の過程で力を蓄えていった守護大名とは相互依存関係にあった室町幕府には、全国的な国絵図を作成することはできなかったか、そもそもその必要性を見出せなかったのだろう。

状況が変わるのは近世 織豊期に豊臣政権が成立してからで、全国規模で検地を行った秀吉は国郡単位の「御前帳」の提出を指示し、これにともなって国絵図が作成された。この国絵図もいっさい現存しないのでその詳細は明らかではないが、同時期に作成された「慶長二年越後国絵図」の内容や、徳川政権が検地を含む土地の支配体制に関しては豊臣政権の延長線上にあることからいって、後述の慶長国絵図と大きく異なるものではなかったと考えられる。

徳川政権 (江戸幕府) 下では、その指示によってけいちょうしょうほうげんろくてんぽうの 4回と、これにかんえいを加えた計 5回、全国規模の国絵図は作成された。

近世国絵図とは

本サイト (近世国絵図総覧) でいう近世国絵図とは、豊臣政権または徳川政権 (江戸幕府) の指示によって全国規模で作成された国絵図を指す。とはいえ、豊臣政権下の国絵図は「慶長二年越後国絵図」しか現存しないため、実質的には後者のことであり、「江戸期国絵図」とも言い換えられる。

なぜ近世国絵図は作成されたのか

根本的には地理的な情報を得るために作成された。つまり国絵図によって、山や川といったおおまかな自然地形と、村々と城下 (城下町) の分布、主要街道や港などの交通に関係する情報、国郡を単位とする境界を把握することができる。また村々には村高が記載され、必要に応じて「枝郷」などの情報が付記されているため、生産性や村々の関係性を俯瞰することができる。

しかし初期においては、実用上の目的とともに「屈服」「臣従」の意味もあったのだろう、ということは容易に想像できる。内情を明らかにし、戦略上重要な情報を差し出すということは、降服することにほかならないからだ。そしてこれが一国単位で作成されたことの意味も大きい。戦国大名の「領国」は否定され、画一的なシステムの中に否応なく組み込まれてしまう。その「領国」が引き裂かれるという心理面に訴える効果も、あるいはあったかのもしれない。

国や郡が単位となったのは、荘園制やそれ基づく古い支配体制を解体する延長上にあったからだ。このときまったく新しいシステムを構築しなかったのは、すでにあるものを利用したほうがコストがかからなかったからだろう。また何よりも「乱れた枠組みを正しい形に戻すのだ」といってしまえば反論できないし、大義名分として絶大な効果があったに違いない。

慶長・正保・元禄・天保および寛永を加えた 5段階 (背景)

江戸幕府の指示によって全国規模で作成された国絵図は、慶長・正保・元禄・天保の 4回と、これに寛永を加えた計 5回である。以下におおまかな年表を示す。

Fig.328: 年表

それぞれの国絵図にはそれぞれの背景が存在する。慶長国絵図が作成されたのは、慶長9年(1604) から大部分が慶長10年(1605) まで、一部はその翌年までと推定されている。これは江戸幕府が成立して間もない時期かつ、いまだ豊臣氏が大坂に健在の時期でもある。前述の象徴的な意味がもっとも大きかった国絵図といえる。寛永国絵図は、寛永10年(1633) から寛永12年(1635) までの作成と推定され、全国規模の巡見使派遣をはじめて実施するにあたって作成が指示された。秀忠の死去によって、家光の為政が本格的に開始された時期である。またこの間に、大坂の陣で豊臣氏は滅亡し、さらに一国一城令が発せられて多くの城郭が破却されるなど、江戸幕府の権威は高まった。

正保国絵図は、正保元年(1644) 12月に作成の指示があったことにはじまる。実質的には翌年から作成が開始され、おおむねけいあん2年(1649)までに完成・提出されたと推定されている。この時期は島原・天草の乱のあとであり、このためか、一連の国絵図の中では、国界 (国境) や峠、あるいは沿岸の交通や地形の情報がもっとも多く書き入れられた国絵図である。軍事的な意味合いがもっとも強かった国絵図ともいえる。元禄国絵図は、元禄9年(1696) 11月にその指示があったことからはじまり、実質的にはやはり翌年から作成がはじまって元禄15年(1702) 年に完成した。江戸幕府安定期に作成され、国絵図を作成する (正保国絵図を更新する) という純粋な目的が強かった国絵図である。天保国絵図は、天保2年(1831) から天保9年(1838) までの作成であり、元禄国絵図とは打って変わって「幕末」がもう見える、政情も不安定化しつつある時期に作成された。各藩の財政の実態を石高から把握しようという意図が垣間見得る国絵図である。

なお、正保・元禄・天保の国絵図は、その背景は説明したとおりにそれぞれ異なるものの、国絵図とそれに付随する帳簿 (郷帳など) を作成することが目的であり、全国一斉に指示が展開され、完成・提出された絵図が集成された。慶長国絵図も基本的な部分では同様である。一方で寛永国絵図については巡検使の派遣にともなって作成が指示・回収されたという点など異なるところが多く、ほかとは区別される。

各国絵図の特徴

当然ながら、慶長・寛永・正保・元禄・天保と、あとになるほど各国絵図の完成度は高くなる。詳細にはそれぞれで説明するので、ここでは概略だけを示す。慶長国絵図は、様式が「未統一」(『不統一』ではない) で、国の形状もかなり不正確かつ主観が内在する。また一国単位の原則が守られていないものも多い。

これが統一されるのが正保国絵図であり、寛永国絵図はその間にあって両者の特徴を合わせ持つ。もっとも、正保国絵図は様式の徹底という意味では不完全であり、絵図によっては様式を外れた描写が部分的に存在する。また国の形状も、特に山地側に不正確な部分を残している。さらに、本来は明らかにされなければならない国界 (国境) について、隣国どうしで整合しない箇所があるほか、係争が決着しないまま、その旨を書き入れられた箇所さえ存在する。しかしそういった点を除く、国絵図の仕様やデザインは正保国絵図でほとんど完成している。

完成形といえるのが元禄国絵図で、そもそも国界 (国境) の確定が言明されたため、これまでのすべての曖昧さは排除され、実地検分によって国の形状もここで最終形となった。ただし、この段階で不要になった注記類は交通関係を中心に削除されたため、国界 (国境) 付近を除いて情報量は減っている。天保国絵図は、元禄国絵図の更新版という位置づけであり、様式は同絵図と変わりない。もっとも天保国絵図では清書を幕府で一括して行ったため、完全に統一されたデザインで出来上がった。

Fig.951 慶長肥前国絵図 (『肥前全図』・武雄鍋島家資料(絵図)閲覧システム公開)
Fig.967 正保肥前国絵図 (『肥前一国絵図』『五嶋図』・武雄鍋島家資料(絵図)閲覧システム公開)

上に示したのは、慶長ぜん国絵図 (左) と正保肥前国絵図 (右) である。慶長肥前国絵図は形状が不正確である上、ちくぜん国の一部を含み、一国単位の原則が守られていない (玄界灘に面した北東端の突出部が筑前国 郡の一部)。正保肥前国絵図は、これが改善され、形状は天保肥前国絵図とほとんど変わらない。

Fig.912 正保伊賀国絵図 (『三重県史 別編 絵図・地図』(1994) 所収・三重県所蔵)
Fig.913 元禄伊賀国絵図 (『三重県史 別編 絵図・地図』(1994) 所収・三重県立図書館所蔵)
Fig.826 天保伊賀国絵図 (国立公文書館 所蔵)

上に示したのは正保国絵図 (左)、元禄伊賀国絵図 (中)、および天保伊賀国絵図 (下) である。伊賀国絵図はコンパクトな国絵図のひとつだが、四方が山地であるため、正保では形状が安定していない。元禄ではこれか改善され、そのまま天保に継承されている。

Fig.773 寛永淡路国絵図 (徳島大学附属図書館 貴重資料高精細デジタルアーカイブ公開)
Fig.876 元禄淡路国絵図 (徳島大学附属図書館 貴重資料高精細デジタルアーカイブ公開)
Fig.874 正保淡路国絵図 (ライデン大学図書館 Universitaire Bibliotheken Leidens 所蔵)
Fig.774 天保淡路国絵図 (国立公文書館 所蔵)

上に示したのは、寛永淡路国絵図 (左上)、正保淡路国絵図 (右上)、元禄淡路国絵図 (左下)、および天保淡路国絵図 (右下)である。四方が海である淡路国絵図では、寛永淡路国絵図の形状や向きが正保で改められ、そのまま元禄天保に継承されている。

現存・特定の状況

慶長・寛永・正保・元禄・天保の国絵図のうち、慶長・寛永・正保の正本は 1枚 (1鋪) も残っておらず、すべて写本として現存する。写本は、作成された時期に古ければ古いほど実用が目的であり、何らかの加筆・修正が行われている可能性がある。この写本もそのまま残っていればよいが、さらに写したものとなれば、その加筆・修正の区別も難しい。

慶長国絵図は江戸初期の国絵図であり、このなかではもっとも古い。しかしほとんど尽くされたといえるほど研究され、どれが慶長国絵図であるのかは確定している。正保国絵図は、国許に残された控え・下絵 (控図・下図) や、元禄国絵図作成のときに作成された写し、中川忠英旧蔵・松平乗命旧蔵といった文庫 (コレクション) として多くの写本が現存する。また正保国絵図自体の仕様や経緯は明らかなほうである。しかし、それぞれの写本が作成された経緯やその後の継承過程 (伝来) に関してはわからないものが大半であり、その内容がどのような性質を持つのかについては常に注意を要する。

元禄国絵図は一部の正本が現存する上 (下総常陸日向薩摩大隅)、関連する絵図や記録が各地に残っている。また余白部分に記載される目録の仕様まで決められていたため、その特定は容易である。天保国絵図はすべての正本が現存する。

もっともわからないのが寛永国絵図であり、これはほかとは異なる作成経緯とその不明瞭さ、仕様に関係する史料が現存しないということに起因する。このため慶長国絵図に近いものもあれば、正保国絵図といってもおかしくないようなもので含まれ、前者はより古い時期 (元和年間(1615~1624)前後) の国絵図かもしれないし、後者は正保国絵図の下絵かもしれない。本稿における推定も現時点での検討に基づくものであって、将来見直されるべきものも当然含まれる。

変更履歴

内容

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  • 追補の上で『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。

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  • 『国絵図と国界』の一部として新規作成。