ここでは、江戸期 (江戸時代) に全国規模で作成された国絵図のうち、下総国絵図について詳細をまとめています。一覧は末尾にあります。

概要

下総国は、五畿七道のうち東海道に属する国である。国立公文書館所蔵の『天保下総国絵図』は紅葉山文庫旧蔵・勘定所旧蔵の両方が現存し、前者 (紅葉山文庫旧蔵) が『天保国絵図下総国』(#764245) としてオンライン公開されている。

Fig.914 天保下総国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.914 天保下総国絵図 (国立公文書館所蔵)

下総国は国立公文書館所蔵の『元禄下総国絵図』『天保下総国絵図』のほか、『寛永下総国絵図』『正保下総国絵図』と推定されるものが存在し、また『日本六十余州国々切絵図 (余州図)』には他国にないバリエーションがある。

日本六十余州国々切絵図 下総国

日本六十余州国々切絵図 (余州図) は、江戸期 (江戸時代) に全国規模で作成されたと考えられている国絵図の 2番目、寛永年間(1624~1644) に作成された寛永国絵図の略図・縮図と考えられている国絵図である。余州図は五畿七道 68国のすべてが秋田県公文書館に現存し、「日本六十余州国々切絵図」の通称も同館のものによる。

この『余州図』は、内容を簡略化した略図 (縮図) であることから、一般に情報量は少ない傾向にある。しかし関八州と西海道 (現在の関東・九州) は特にこの傾向が強く、さらに下総国のものはその中でも際立っている。

Fig.919 日本六十余州国々切絵図 下総国 (秋田県公文書館所蔵)
Fig.919 日本六十余州国々切絵図 下総国 (秋田県公文書館所蔵)
Fig.921 日本六十余州国々切絵図 下総国 (『下総国11郡絵図』 ・ 秋田県公文書館所蔵)
Fig.921 日本六十余州国々切絵図 下総国 (『下総国11郡絵図』・秋田県公文書館所蔵)

上に示したのは秋田県公文書館デジタルアーカイブで公開されている『日本六十余州国々切絵図 下総国』(#15706) (左) と『下総国11郡絵図』(#120500) (右) で、大きさはそれぞれ東西 99cm × 南北 82cm、東西 108cm × 南北 84cm である。前者 (左) は文字どおりに下総国の余州図であり、後者は秋田県公文書館にそれとは別に存在する絵図で、これは相模武蔵安房上総・下総・上野下野常陸の「関八州」8国と出羽国に限られる。

これら 2つの余州図の北半分 (上半分) に注目すると、「下総国」の表記が存在するある利根川・小貝川 (鬼怒川旧流路)・鬼怒川新流路 (短絡部) で囲まれた部分や、「関宿」のある庄内古川・利根川に挟まれた部分には村がまったく描かれていない。またその北方の空白域には、「山川」と「古城」(山川城) が漠然と置かれている。 ただし『下総国11郡絵図』(#120500) (右) では、その部分に細い白線が引かれ、かなり頼りないながらも国界が表現されている。

下総国の余州図には、ほかに『下総国[東海道図]』京都大学 貴重資料デジタルアーカイブで公開され、大きさは東西 105cm × 南北 77cm、『〔下総国絵図〕』(T1-75)岡山大学 絵図公開データベースシステム で公開され、大きさは東西 109.6cm × 南北 78.5cm である。『下総国[東海道図]』の描写は『日本六十余州国々切絵図 下総国』(#15706) と変わらない一方、『〔下総国絵図〕』(T1-75) は『下総国11郡絵図』(#120500) と同様に細い白線で国界が表現されている。

下総国の余州図にはさらに『下総一国之図』が現存し、船橋市デジタルミュージアム公開されている。本図の大きさは東西 111cm × 南北 92cm である。

Fig.922 日本六十余州国々切絵図 下総国 (『下総一国之図』 ・ 船橋市西図書館所蔵)
Fig.922 日本六十余州国々切絵図 下総国 (『下総一国之図』・船橋市西図書館所蔵)

『下総一国之図』には、ほかの各絵図では空白だった部分に村々が記載されている。差異の詳細を示せば以下のとおりである。

城・御殿

内容
各図の差異 (城下・古城・御殿)
項目余州図※111郡絵図※2岡山※3京都※4『下総一国之図』
古河城古河
関宿城関宿
佐倉城佐倉
付箋(結城)(なし)水野日向守居城
付箋(古河)(なし)拾万石 ⊏⊐大炊※5 (土井大炊)拾万石 土井大炊拾万石 𡈽井大炊本多中啓大輔居城
付箋(関宿)(なし)四万石 久世大和守久世出雲守居城
付箋(佐倉)(なし)六万石 松平和泉守堀田相模守居城
山川城 (綾戸城)古城
小金城古城
本佐倉城古城
神崎城(群)古城
大崎城 (矢作城)古城
本佐倉城古城
船橋御殿御殿
御茶屋御殿※6御殿古城
千葉御殿※7御殿
注釈

内容
各図の差異 (村)
項目※1余州図※211郡絵図※3岡山※4京都※5『下総一国之図』
葛飾郡 中田町中田中田中田(文字無)※6中田
葛飾郡 元栗橋村クリハシくり橋栗橋
葛飾郡 小金町小𛀚𛂔小金
葛飾郡 松戸町松戸
葛飾郡 市川村市川
葛飾郡 本行徳村キヤウトクきやう徳き※う徳 (きやう徳)きやう徳行徳
葛飾郡 八幡村八幡
葛飾郡 船橋村舟橋
葛飾郡 中里村(欠)中里
松伏領 築比地村※7(欠)ツケヒツ
幸手領 幸手宿サツテさつてサツテ
幸手領 杉戸宿杦戸
松伏領 上内川村 ・ 下内川村(欠)内川
二郷半領 吉川村ヨシ川よし川吉川
結城郡 結城本郷(文字無)※6※ふき (ゆふき)ゆふき※ふき (ゆふき)結城
小判形・平行3色※8※9小判形・変則3色※8※10真円・白色
放射状凡例※11一般的な凡例※12n/a
結城郡 上山川村山川
猿島郡 諸川村(欠)諸川
猿島郡 仁連村(欠)仁連
猿島郡 がい(欠)久貝
不明 (猿島郡 境町の原形となる地名か)(欠)堀村
岡田郡 向石下村(欠)宕下
千葉郡 馬加村𛃖𛁥𛃖𛁥𛃖𛁥𛃖𛁥𛃖𛀘(馬加)
千葉郡 がわケコ川けこ川けこ川けこ川ケミ川
千葉郡 寒川村サン川さん川さん川さん川サン川
千葉郡 曽我野村ソカノそ𛀚のそ𛀚のそ𛀚のソカノ
千葉郡 かねおやカナヤ𛀚𛂂や(不明)※13か𛂂やカナヤ
千葉郡 大和田村大𛄌𛁠大𛄌𛁠大𛄌𛁠大𛄌𛁠大和田
相馬郡 根戸村𛂘ト𛂗と𛂘ト
相馬郡 戸張村トハリと𛂦りトハリ
相馬郡 阿孫子村アヒコあひこアヒコ
相馬郡 大井村ヲ〃イ or ヲクイおヽい or おくい大井
相馬郡 いち一ふ一分一府
相馬郡 新木村あ𛃰きアラキ
相馬郡 ふさ府佐
相馬郡 かわふ川府川
相馬郡 布施村フセふせ□施 (布施)※14
相馬郡 板戸井村(欠)坂飛
相馬郡 大木村(欠)大木
相馬郡 守谷町(欠)守屋
相馬郡 大鹿村か?(欠)アツナカ
相馬郡 取手村(欠)トリテ
相馬郡 山王村(欠)山王
相馬郡 河原代村カワラシロか𛄌𛃰𛁈ろ𛀚𛄌𛃰𛁈ろカハラシロ
相馬郡 長沖村長おき長おき長をき長※き (長おき)長ヲキ
相馬郡 長沖新田村𛂂𛀚おき新田𛂁𛀚おき新田𛂂𛀚をき新田長※き新田 (長おき新田)新田
文間 (広域地名)モンマ𛃙んま𛃚んま𛃙んまモンマ
印旛郡 いさごイサコいさこイサコ
印旛郡 臼井村ウスイうすいうすいう※い (う𛁏い)ウスイ
印旛郡 酒々井村シヤスイ𛁈𛃞すい𛁈𛃞すい𛁈𛃞𛁏いシヤスイ
木下 (広域地名)木おろし木おろし木※ろし (木おろし)木ヲロシ
香取郡 香取村カン取かん取カントリ
香取郡 津野宮村ツノ宮𛁪の宮つの宮𛁭の宮津ノ宮村
香取郡 片巻村ハタマキ𛂦𛁠まき𛂦𛁠まき𛂦※※き (𛂦𛁠𛃄き)ハタマキ
香取郡 金江津村カナイヅ𛀚𛂁い𛁪゙𛀚𛂂いづか𛂁いつカナイヅ
香取郡 本矢作村・大崎村※15書付ふ見※﨑 (大﨑)
香取郡 大和田村タカノ大ワタた𛀚の大𛄋𛁠た𛀚の大𛄌𛁠大ワタ
香取郡 佐原村サワラさ𛄌𛃰サワラ
香取郡 小見川村ヲミ川𛀕𛃉川オミ川
香取郡 小見村ヲミ𛀕𛃉𛀔𛃋 (於美)
香取郡 大寺村大寺大寺※16
源太河岸ケンタけんた※んた (けんた)ゲンダ
埴生郡 成田村ナリ田成田
埴生郡 寺台村寺タイ寺たい寺代
匝瑳郡 八日市場村八日市場八日市
匝瑳郡 椿村ツハキ𛁪𛂦きつ𛂦き𛁭𛂦きツハキ
海上 (広域地名)ウナ上う𛂁上う𛂂上う𛂂上※17ウナ上
注釈

国境情報

内容
各図の差異 (国境情報)
項目余州図※111郡絵図※2岡山※3京都※4『下総一国之図』
和戸方面同𛄌どへ出同𛄌とへ出ル武州ワトヘ出
粕壁方面同𛀘𛁏𛀘べㇸ出同𛀚す𛀚べㇸ出ル同かすかべㇸ出ル武州カスカヘヘ出
(欠)杦戸ヨリカスカヘ江一リ半
八条方面同𛂞てうㇸ出同八てうㇸ出ル武州八テウヘ出
(欠)小金ヨリ八テウマテ二リ半
金町方面1同𛀘𛂂町ㇸ出同𛀚𛂁町ㇸ出ル同𛀚𛂂町ㇸ出ル同𛀘𛂁町ㇸ出ル武州金町ヘ出
(欠)杦戸ヨリ金町ヘ一リ
金町方面2武州葛西ㇸ出ル武州𛀚さいㇸ出ル武州かさいㇸ出ル武州葛西ヘ出
(欠)杦戸ヨリ金町ヘ一リ
若柴方面常州あかさきㇸ出常州あ𛀚さ𛀧ㇸ出ル常刕あ𛀚さ𛀧江出ル常州赤柴へ出
龍ケ崎方面1同𛃶う𛀚崎ㇸ出同𛃶う𛀚崎ㇸ出ル/td>同𛃶う𛀚崎江出ル常州リウカ﨑ヘ出
(欠)フカハヨリリウカ﨑ヘ二リ
龍ケ崎方面2同所ㇸいつ𛃽同所ㇸ出ル常州リウカ﨑ヘ出
(欠)※サキヨリリウカサキヘ四リ半 (~大~)
横芝方面(欠)上総横シハヘ出
(欠)八日市ヨリ横シハヘ二リ
本金方面※5(欠)上総本金ヘ出
(欠)カナヤヨリ本金ヘ四リ
八幡方面(欠)上総八幡ヘ出
(欠)ソカノヨリ八幡ヘ一リ
野木方面(欠)下野乃木ヘ出
モロキ方面※6(欠)下野モロキヘ出
栗橋・中田付近川半分武州ノ内※7川半分武州之内※7川半分武州ノ内※7川半分武州之内※7川半分武州ノ内※8
栗山川付近東川国サカイ(欠)
注釈

目録ほか

内容
各図の差異 (目録ほか)
項目余州図※111郡絵図※2岡山※3京都※4『下総一国之図』
図内見出し※5下総國※6 (枠内)下總國※6 (枠内)下総國※6 (枠内)下総國※7 (枠内)将門屋敷 (文字列)
目録 (位置)(欠)南西北西
(表題)(欠)下総国十一郡下総國拾一郡 下総一国之図 大管十二郡
(内容)(欠)カトシカ 印幡インハ 匝瑳サフサ ウラカミ 香取カトリ 埴生ハマフ 相馬サウマ 猨島サシマ 結城 トヨカトシカ イン 匝瑳サフサ ウラカミ 香取カトリ 埴生ハマフ 相馬サウマ 猨島サシマ 結城 トヨカトシカ イン 匝瑳サフサ ウナカミ 香取カトリ ハマ 相馬サウマ 猨島サシマ 結城 トヨカトシカ 千葉郡 イン ハニ シマ トヨ サウ ユフ サフ カントリ ウナカミ サフ ヲカ
(石高)(欠)畗貳十五万百四十石余高貳十五万百四十石余高弐拾五万百四拾石余三十九万三千石
城一覧(欠)三ケ城 古河 佐倉 世喜宿
道程情報(欠)「アヒコヨリ小金マテ二リ」など
水域情報「池」「池」「潮入」(朱記)
隣国朱記(欠)武蔵地 常陸地 上總地 下野地
武蔵・常陸・下野国界白線(欠)存在存在(欠)(欠)
自然描写の樹木
注釈

上にまとめたように、『下総一国之図』では、ほかで不足する情報が含まれ、また誤っている部分はすべて正しく記載されている。文字はしっかりとした楷書体であり、書体や丁寧さは写本作成者にもよるかもしれないが、全体としても「完成されたもの」という印象が強い。一方で、本図を縮図とすればその原図に相当する『寛永下総国絵図』よりも充実している情報もあって、ほかとまったく同一の過程で完成されたものかどうかはわからない。

なお、本図では水戸街道が「アヒコ」(近世 阿孫子村、現在の表記は『我孫子』) と「一府」(同 いち村) の間で 2方向に分かれ、その後合流している。このうち東側の「府佐」(同 村) と「府川」(同 かわ村) の間で利根川を渡るほうが本道で、「トリデ」(同 取手村、取手宿) を通るのがこれを補完する脇道である。後者が水戸街道に指定されるのは天和2年(1682) 以降だが、寛永6年(1629) にはすでに渡船場から続く街並みが形成されていた※1。したがって特に矛盾はなく、むしろ簡略化の傾向の強い余州図にもあらわれるほど、すでにこの脇道が本道に準ずるような存在だったことがわかる。

また、本図では岡田郡を含む 12郡構成となっているが、その成立 (豊田郡を鬼怒川東西で分割) は貞享3年(1686) とされる。しかしこれは『下総国旧事考』に「岡田郡ヲ建タルハ貞享三年ナリト云」によるものであり、根拠は示されていない。それより前のいわゆる寛文印知※2にも「下総国岡田郡」は含まれ、松平乗命旧蔵や『寛永国絵図』と推定される船橋市西図書館所蔵 『下総国 十四』にも岡田郡は存在する。

詳細には検討が必要だが、秋田県公文書館デジタルアーカイブの『下総国11郡絵図』(#120500) と岡山大学 絵図公開データベースシステムの『〔下総国絵図〕』(#T1-75)は明らかに同じ系統である。同じ秋田県公文書館でも『日本六十余州国々切絵図 下総国絵図』(#15706)は別系統であり、船橋市デジタルミュージアムの『下総一国之図』はおそらくこの延長上に存在すると考えられる。京都大学 貴重資料デジタルアーカイブの『下総国[東海道図]』は『下総国11郡絵図』(#120500)・『〔下総国絵図〕』(T1-75) 系統の (あまり丁寧とはいえない) 写しである。

注釈

寛永下総国絵図

寛永下総国絵図』は、江戸期 (江戸時代) に全国規模で作成されたと考えられている国絵図の 2番目、寛永年間(1624~1644) に作成された寛永国絵図のうち下総国のものである。船橋市デジタルミュージアムでは『下総一国之図』とは別に『下総国 十四』が現存・オンライン公開され、これが『寛永下総国絵図』ではないかと推定される。史料名は表紙による。「十四」の数字があることから、一連の国絵図写本のうちの一部だったと考えられる。

Fig.722 寛永下総国絵図 (『下総国』 ・ 船橋市西図書館所蔵)
Fig.722 寛永下総国絵図  (『下総国』・船橋市西図書館所蔵)

本図の大きさは東西 126cm × 南北 101cm で、『余州図』 (『下総一国之図』以外) と同じように「古河」「関宿」「佐倉」の 3城が存在し、「結城」(結城本郷) は共通の赤・黒・白で塗り分けられ、「赤キハ下野」「黒キハ常陸」「白キハ下総」の凡例が存在する (塗り分けの解釈については『28.3.2. 高椅(1)』を参照)。一方で村の数は遥かに多く、街道や国境記載も詳細である。このため、本図は下総国の『余州図』に対応する『寛永下総国絵図』と推定される。略図と正式な絵図の関係であることや、本図には村名のないオブジェクトが存在することから完全には一致しないが (村名の欠如は原図に起因すると思われる)、「けこ川」(がわ村、ミ → ニ → コ → こ) の誤りなど共通するところが多い。形式も (その不正確さも含めて) ほかの現存する寛永国絵図と矛盾しない。

ただし、本図と同じように『余州図』と様式が共通する寛永国絵図がほかには存在しないことも事実で、この点においてはさらに検討したい。前述のように、本図は一連の国絵図写本の一部だったと考えられることから、ほかの国絵図が発見されることが期待される。

船橋市西図書館所蔵 下総之国図

船橋市西図書館には前項までの『下総一国之図』(余州図)・『下総国』(寛永国絵図) のほかに『下総之国図』が現存し、同様に船橋市デジタルミュージアムでオンライン公開されている。史料名は南東に記載された内題による。

本図はその作成の目的・経緯などは一切不明だが、描かれている景観から元和年間(1615~1624) までに作成されたものと推定されている※1

Fig.519 船橋市西図書館所蔵 下総之国図 (船橋市デジタルミュージアム公開)
Fig.519 船橋市西図書館所蔵 下総之国図 (船橋市デジタルミュージアム公開)

本図の大きさは東西 198cm × 南北 98cm で、様式に注目すると、まず村名の表記は漢字仮名交じりで仮名はいわゆる変体仮名を含み、ひらがな・カタカナの両方が使用されている。これは余州図 (および余州図に近い寛永国絵図) に共通し、正保以降の国絵図ではほぼ淘汰される表記である。一方で、村をあらわすオブジェクトは余州図とは異なり、真円かそれに近い形状であつて、これはライデン大学図書館所蔵の『丹後国絵図 (Tango no kuni ezu)』に類似する。オブジェクトが乱雑に配置される一方で、村名はほぼ同じ方向を向いている点も同様で、これによってか絵図全体から受ける印象も似たようなところがある。村の表記と形状に関しては『慶長備前国絵図』にも通じるものがある。

本図はこのように寛永国絵図よりも古い国絵図であることが強く示唆される。しかし残念ながら、石高や支配関係の情報は一切記載されていないことから、厳密な成立時期を特定することはできない。

注釈

中川忠英旧蔵

国立公文書館所蔵、中川忠英旧蔵の国絵図群 (通称『日本分国図』) には下総国のものが 2分割された形式で含まれるが、うち東半分#2545940だけが現存・オンライン公開されている。

Fig.923 下総国絵図 (中川忠英旧蔵 ・ 国立公文書館所蔵)
Fig.923 下総国絵図 (中川忠英旧蔵・国立公文書館所蔵)

本図は正保国絵図の様式で描かれ、またほかの中川忠英旧蔵の正保国絵図と共通することから『正保下総国絵図』と推定される。しかし『正保下総国郷帳』は現存せず、国絵図・郷帳作成当時の正確な国郡高も伝わっていないため、石高によって特定することはできない。また何に基づくかはっきりしない史料まで含めても、かえって混乱するだけで推定も難しい (江戸前期 下総国 国高・郡編成一覧も参照)。

本図は中川忠英旧蔵の国絵図の中でも特異な国絵図である。中川忠英旧蔵の国絵図は複数に分割されているものが多く、本図はそのようなもののひとつである。しかしほかは郡界で分割されているのに対して、本図は中央付近で東西に分割され、前述のように東半分だけが現存する。

西半分も過去の目録上は存在し※1『福井bで言及された時点では存在していたと考えられる。『福井bには「二鋪に分割されている」とあり、請求番号として 176-286-15 ・ 176-286-16の 2つが提示されている。しかし、現在の国立公文書館デジタルアーカイブにおける『日本分国図』の「簿冊情報」には「15欠」とあって、実際に「件名・細目一覧」では表示されず、「冊次」が欠番となっている。つまり 1980年代以降に失われたとみられる。西半分には江戸初期の変動が著しい葛飾郡が含まれ、現存すればこれによって新たに確かめられることは多いはずであり、非常に惜しまれる。

注釈

松平乗命旧蔵

国立公文書館所蔵、松平乗命旧蔵の国絵図群 (通称『日本分国絵図』) には下総国のものが含まれ、現存する (#72510)。

Fig.776 松平乗命旧蔵 下総国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.776 松平乗命旧蔵 下総国絵図 (国立公文書館所蔵)

本図はオンラインでは公開はされていない。

この松平乗命旧蔵の国絵図群には、松平乗命から明治政府へ渡る前後 (明治5~6年(1872~1873))に、京都府が一式を借用して忠実に模写したものも存在し、京都府立京都学・歴彩館に現存、館古044: 国絵図という一群で管理されている。その『下総国絵図』もオンラインでは公開されていないが、目録は国立公文書館デジタルアーカイブよりも充実している。

写本の大きさは東西 242.5cm × 南北 180.9cm で※1、(松平乗命旧蔵としての) 原本の大きさも同様と考えられる。

本図の特徴は何よりも自然描写にある。本図では野 (洪積台地) と (沖積低地) が塗り分けられ、これによって「」が巧みに表現されている。谷津は当地を特徴づける地形ではあるが (『28.1.4. 下総台地』も参照)、その高低差はせいぜい数10メートルであり、現在の地形図であってもよほど範囲と標高を絞り込まない限りは見えてこない。もちろんほかの国絵図では表現されることはなく、『元禄下総国絵図』『天保下総国絵図』でも無視され、『正保下総国絵図』と推定される中川忠英旧蔵でも変わらない。『余州図』『寛永下総国絵図』では山陵が描かれているが、前者は風景上のアクセントに過ぎず、また後者は空白を埋めているだけで実際の地形を表現しているわけではない。

一方、中川忠英旧蔵の場合、元禄以降の下総国絵図を想像できる事物が、ほかの正保国絵図と同様の (記号化されていないという意味で) 絵画的な表現で描かれているのに対して、本図は異なる。これは香取神宮と、犬吠埼~屏風ケ浦~刑部岬付近の表現を『元禄下総国絵図』見比べるとわかりやすい。

国絵図としての要素に着目すると、本図の郡名は短冊型のオブジェクトに書かれ、また古城は中川忠英旧蔵よりも明らかに多く、おそらく『下総之国図』で名前を与えられていた城が古河・関宿・佐倉を残して「古城」表記になっている。古城は正保国絵図以降、基本的に名所旧跡などと同様に背景の一部になる (特定のオブジェクトでは示されない) か、または描かれなくなることから、本図は中川忠英旧蔵よりも古い時期を描いているといえる。しかし『余州図』『寛永下総国絵図』の延長に中川忠英旧蔵を想像できても、本図の延長には考えられない (本図は系統から外れている)。

以上にように、本図は江戸初期の下総国を描写した重要な国絵図であることには間違いないものの、その性質については、さらに検討が必要といえる。なお、本図の郡界や街道は標準的な墨線・朱線で、街道には一里塚・道程記載とも存在する。ただし、村のオブジェクト (不定形) の外に記載された村高が、かなりのケースで道程記載のように見える位置に置かれていることには注意をしたい。これは国境情報も同様で、そのように見える多くは近くの村の村高である。なお、オブジェクト内に記載された村名は接尾辞が省略されている。

元禄下総国絵図

元禄下総国絵図』は、江戸期 (江戸時代) に全国規模で作成された国絵図の 4番目、元禄年間(1688~1704) に作成された元禄国絵図のうち下総国のものである。元禄国絵図は国立公文書館に多く現存する。本図もその一部であり、『元禄国絵図下総国』(#764295)として現存・オンライン公開されている。

Fig.811 天保下総国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.811 天保下総国絵図 (国立公文書館所蔵)

国立公文書館所蔵の元禄国絵図のうち、下総常陸日向薩摩大隅は正本、五畿 (大和山城河内和泉摂津) と近江丹波播磨は写本であり (本稿の対象ではない、五畿七道 68国以外を除く)、したがって本図は正本である。

本図の大きさは 東西 501cm × 南北 391cm で、余白部分 (畾紙) の目録には「下総国高都合并郡色分目録 (下總國髙都合并郡色分目錄)」の表題とともに郡名・郡高・村数が一覧され、奥書に元禄15年(1702) 11月の日付 (『元禄十五壬午年十一月』) と牧野備前守・松平伊豆守の名前が記されている。

の奥書相当の部分には、

天保下総国絵図

天保下総国絵図』は、江戸期に全国規模で作成された国絵図の最後、天保年間(1830~1844) に作成された天保国絵図のうち下総国のものである。冒頭で言及したとおり、『天保下総国絵図』は国立公文書館に紅葉山文庫旧蔵・勘定所旧蔵の両方が現存し、前者 (紅葉山文庫旧蔵) が『天保国絵図下総国』(#764245) としてオンライン公開されている。

紅葉山文庫※2は江戸城内にあった、将軍の利用を原則とする書庫 (図書館) であり、勘定所は勘定奉行を長とする役所である。したがって紅葉山文庫旧蔵は保存と限定的な参照を目的に納められたもの、勘定所旧蔵は実務に供されたものとなるが、紅葉山文庫旧蔵も必要に応じて借用・参照されたようである※3

『天保下総国絵図』は大きさが東西 466cm × 南北 362cm で、目録の奥書部分には、全国一律に天保9年(1838) の日付 (『天保九年戊戌五月』) と明楽飛騨守・田口五郎左衛門・大沢主馬の名前が記されている。

注釈

一覧

江戸前期 下総国 国高・郡編成一覧

史料国図郡編成
慶長3年(1598) (『大日本租税志』)374,083.80000石※1n/a
寛永元年(1624) (『国々高寄』)393,250.00000石※212郡※3
余州図下記以外250,140.00000石※411郡※5
『下総一国之図』393,000.00000石※612郡※7
寛永下総国絵図 (『下総国』)250,140.00000石※812郡※9
松平乗命旧蔵361,037.80000石※1012郡※11
正保年間(1644~1648) (郡名村数高附記)361,037.80000石※12n/a
正保年間(1644~1648) (村高比較表)訂正前361,037.80000石※13n/a
訂正後444,829.84200石※14
中川忠英旧蔵444,829.84200石※1512郡 (推定※16)
元禄国絵図 ・ 郷帳568,331.11374石※1712郡※18
注釈

国々高寄

『国々高寄』は『明治大学刑事博物館資料 第10集 郷帳10』(1988) に翻刻されている『美濃国郷帳』の末尾に追記されている石高 (国高) の一覧。「国々高寄 但寛永元年改」とあり、寛永元年(1624) 時点の数値を示している。何に基づくのかはわからない。

郡名村数高附記

六拾余州郡名村数高附記『福井bで参照されている史料である。『六拾余州郡名村数高附記 (六拾餘州郡名村數高附記)』は内題。外題は『元禄・天保 御国高 (元禄天保御国髙)』であって、元禄・天保の国郡高をまとめたものだが、校訂以外にも朱記が多い。

下総国についての「正 三拾六万千卅七石八斗」の記載も朱記によるもので、『正』(正保) は『元』『天』(元禄・天保) に対する記号である。つまり正保の国高 (とされるもの) が示されており、『福井bはこれをもって松平乗命旧蔵を『正保下総国絵図』としている。

村高比較表

『正保・元禄・天保・明治 村高比較表 (正保元禄天保明治村髙比較表)』 は『川村a』で参照されている史料である。正保・元禄・天保と明治初期調査の国郡高が、陸奥・出羽の分割後の各国についてすべて記載されている史料である。ただし数値が何に基づくのかは一切記載されていない。『川村a』はこれをもって中川忠英旧蔵を『正保下総国絵図』としている。

なお、参照する『新田開発 改訂増補』(1977)に『正保元禄天保明治郡村石高帳 (正保元祿天保明治郡村石高帳)』と誤って記載されているためか、『川村a』でも『郡村石高帳』と記載・参照されている。『郡村石高帳』は類似する別の史料である (どちらも東京大学史料編纂所所蔵)。

更新履歴

内容

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  • 外観とメニュー類をリニューアルした。
  • 『国と国界』にあった『日本六十余州国々切絵図 下総国』の下総国の記載 (残部) を移した。

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  • 日本六十余州国々切絵図の記事について、表題を『日本六十余州国々切絵図 下総国』に変更し、説明を整理した。

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  • 『天保下総国絵図』の記事を追加した。
  • 『日本六十余州国々切絵図』の記事について、わかりにくい表現を適宜見直した。
  • 『寛永下総国絵図』『船橋市西図書館所蔵 下総之国図』の記事を若干、追補した。
  • 一覧に松平乗命旧蔵(写) を追加し、松平乗命旧蔵の記事を追補した。

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  • 『寛永下総国絵図』の記事を追補した。

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  • 導入文を追加し、概要を追補した。
  • 『国と国界』にあった『日本六十余州国々切絵図 下総国』の下総国の記載 (一部)、『寛永下総国絵図』・『船橋市西図書館所蔵 下総之国図』の記載 (全部) を整理の上でここに移し、また外観を示した。
  • 中川忠英旧蔵・松平乗命旧蔵の記事を追加し、また外観を示した。あわせて一覧の説明を適宜見直した。

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  • 導入文を追加し、概要を追補した。

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  • 構成を再整理し、概要を追加した。誤字・脱字を適宜修正した。
  • 中川忠英旧蔵・松平乗命旧蔵を一覧に追加した。
  • 『元禄下総国絵図』について外観を示した。

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  • 新規作成。