ここでは、戦国期から織豊期にかけて発生した肥後・薩摩国界 (国境) の変動と、そのまさに変動したエリアである長島について分析しています。
そもそもどこか?
変動の舞台は、天草諸島の南部に連なる長島 (長島本島) と周辺島嶼 (諸浦島・伊唐島・獅子島など) であり、現在の鹿児島県 長島町にあたる。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

薩藩政要録の村々
近世 薩摩国 出水郡 長島郷
- 20. 平尾村
- 21. 川床村
- 22. 浦底村
- 23. 鷹巣村
- 24. 下山門野村
- 25. 指江村
- 26. 城川内村
- 27. 蔵之元村
- 28. 諸浦村
- 29. 山門野村
- 30. 獅子島
- 31. 伊唐島
変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が推定される変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界である。『天保薩摩国絵図』で示せば、以下に示す部分である。

要因と経過
純粋に地理を観点に見た場合、長島は明らかに天草諸島の一部である。地名があらわれる最古の史料は、『続日本紀』宝亀9年(778) 11月13日の記事であり、このとき、唐から帰国途中に嵐に遭遇した遣唐使船の一部が漂流して「肥後国天草郡西仲島」に流れ着いた。この「西仲島」が当地であると考えられている。以下は『続日本紀』のその部分である。

鎌倉末期に発生した、山田野・河床ほか散在の地頭職を巡る争いでは、裁許を記した元徳元年(1329) 11月29日付『鎮西下知状』※1に「長嶋山田野」「山田野・河床」、同年12月5日付および同月25日付『鎮西御教書』※2に「肥後國天草嶋山田野」、決定を実行に移そうとした『肥後国守護代藤原秀種請文』※3に「肥後国天草山田野」「長嶋山田野」とある。なおこの「山田野」は「山門野」(近世 山門野村・下山門野村) と推定され※4、「河床」は「川床」(近世 川床村) にあたる。
しかし戦国期に入ると、長島は薩摩(※ふりがな※:さつま)国の勢力から圧迫を受けるようになった。そして永禄8年(1565) 出水の薩州島津氏 (忠兼、前当主・実久の弟、現当主・義虎の叔父) に攻略され、天正9年(1581) までに薩州島津氏の支配が確立された※4。
一方、天正15年(1587) 3月、豊臣秀吉は大軍を率いて九州への侵攻を開始し、早くも翌月には長島に対して 3箇条の定書※5を発布する。この定書には「薩摩国長島」と記され、長島はすでに薩摩国の延長とみなされている。4月27日※6、大軍を前に薩州島津氏 (忠辰 、義虎の子) は秀吉に降服した。このとき、長島はそのまま「薩摩国長島」として安堵されたとみられ、文禄4年(1595) 4月26日付の『薩摩国出水郡内知行方目録』でも長島の各村は「薩摩国出水郡内」として把握されている。つまり天正15年(1587) の時点で近世の肥後・薩摩の国界は豊臣政権によって確定され、以後の長島は薩摩国として把握されるようになった。
なお当時、島津氏本家の島津義久は、弟の義弘らと薩摩・大隅・日向の 3国を領国として統一し、さらに版図を広げていた。しかしやはり大軍を前に総崩れとなって撤退を余儀なくされ、島津氏本家も天正15年(1587) 5月8日までに秀吉に降服した。これを受けて秀吉は、義久に薩摩国を※7、義弘に大隅国 (ただし肝付郡と北郷時久旧領を除く) を※8それぞれ安堵した※9。つまり近世 薩摩・大隅・日向の国界もここで確定したことになる。
薩摩国出水郡内知行方目録
薩摩国出水郡内知行方目録は、文禄4年(1595) 4月26日付の対馬・宗氏に対する知行目録である※10。薩州島津氏の忠辰は、文禄2年(1593) 不手際から所領を没落され、旧領は文禄4年(1595) 4月に対馬・宗氏の義智(※ふりがな※:よしとし)へ与えられた。このときの目録が『薩摩国出水郡内知行方目録』である。なお、慶長4年(1599) 長島を含む出水郡は島津義弘に与えられ、以後、近世を通じて長島は薩摩藩の支配となった。
長島の村々は下記のとおり。
| 目録 | 薩藩政要録 |
|---|---|
| 本城村 | 26. 城川内村※4 |
| 平尾村 | 20. 平尾村 |
| 蔵のもと村 | 27. 蔵之元村 |
| たかのす村 | 23. 鷹巣村 |
| さすへ村 | 25. 指江村 |
| 川とこ村 | 21. 川床村 |
| 山との村 | 29. 山門野村※ |
| かせと村 | 29. 山門野村の加世堂集落 |
| ミふね村 | 22. 浦底村の三船集落 |
| おはま村 | 27. 蔵之元村の小浜集落 |
| ししかしま | 30. 獅子島 |
| 宮のうら | 23. 鷹巣村の宮ノ浦集落 |
注釈
データシート
| 変動 | 長島 (長島本島) と周辺島嶼 (諸浦島・伊唐島・獅子島など) |
|---|---|
| 要因 | 戦国期~織豊期の軍事勢力による支配地域化、および豊臣政権によるその承認 |
| 曖昧化の時期 | 戦国期~織豊期 |
| 変動の確定時期 | 天正15年(1587) |
更新履歴
内容
:
- 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。
:
- 『国絵図と国界』の一部として、新規作成。
