ここでは、戦国期から織豊期にかけて発生した三河・信濃国界 (国境) の変動と、そのまさに変動したエリアである根羽村について分析しています。

そもそもどこか?

変動の舞台は、現在の長野県 根羽村である。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

Fig.177 根羽村 (三河・信濃国界): 天正19年(1591)
Fig.177 根羽村 (三河・信濃国界): 天正19年(1591)

変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が推定される変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界である。『天保信濃国絵図』で示せば、以下に示す部分である。

Fig.674 天保信濃国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.674 天保信濃国絵図 (国立公文書館所蔵)

直接的要因と経過

すでに信州 谷を制圧していた武田信玄 (はるのぶ) は、 三河国へ再三にわたって侵入、げん2年(1571) 家康に服属していたすけ鈴木氏の松山城 (足助城) を攻め落とした。信玄はさらに周辺の諸城も次々に落城・開城させ、その支配域は三河にまで拡大した。また元亀3年(1572) には遠江とおとうみ国に侵入、三方原の戦いで家康・信長の連合軍を大敗させ、元亀4年(1573) 三河の野田城 (徳川方・菅沼さだみつ) を攻め落とした。しかしその帰路で信玄は病死してしまう。信玄の遺命を奉じたかつよりは家康・信長に対抗し、勢力を維持するために奮戦するも抗い切れず、天正10年(1582) 3月までに武田氏は滅びた。

武田氏滅亡後、本能寺の変とその後の混乱を経て、伊那谷は家康の支配下となった。しかし、その家康も天正18年(1590) に関東へ転封され、支配は毛利ひでよりが継承した。このとき検地が行われ、その結果は天正19年(1591) 9月の日付を持つ『青表紙御検地帳』)※1に残されている。これによれば、根羽村 (『根羽』『月瀬』) は「信州伊奈郡」の「下条領」に含まれ、信濃国して把握されている。つまりここで近世以後の三河・信濃国界は確定した。

注釈

間接的要因

三河・信濃国界の変動について直接的要因は前述のとおりだが、それではなぜ、根羽村は信濃国として把握されたのだろうか。郷土史家・関もりたねは、その著書『伊那温知集』『伊那神社仏閣記』※1で根羽村・惣源寺 (そうげん) を以下のように叙述している※2

古來は三河國の分也、信玄安助合戰に伐取、信濃國へ入る

伊那温知集

按するに、古代は三州加茂之內に而候。天正年中、武田信玄信州御手に入、又三州之安助迄攻取此節、信州之內へ入候也

伊那神社仏閣記

つまり関盛胤は、元亀2年(1571) 信玄が足助 (安助) を含む一帯を攻略し、三河へその支配域を拡大したことに、国界変動の要因を求めている。しかし、信玄の具体的な国軍認識がわかる史料も、根羽村を信濃国に組み入れたことがわかる史料も存在せず、信玄の知名度に引きずられた推定か、あるいは伝承に基づくものだろうというしかない。

前述のように、根羽村は『青表紙御検地帳』で信州伊奈郡の下条領に含められている。この「下条領」は下条氏の旧領に相当し、その没落は天正15年(1587) である。したがって下条領という所領単位だけは残って、かつこの内に根羽村が含まれていたがために、『青表紙御検地帳』(天正19年(1591) 9月 ) の前提となる検地でそのまま信濃国 伊那郡の一部と把握された、というのが実体だろう。以下はその下条領の範囲に含まれる、天保郷帳・国絵図の村々である。

Fig.106 根羽村 (三河・信濃国界): 天正19年(1591)
Fig.106 根羽村 (三河・信濃国界): 天正19年(1591)
天保郷帳・国絵図の村々
近世 信濃国 伊那郡 (下条領) ①
近世 信濃国 伊那郡 (下条領) ②

下条氏は下伊那 (伊那谷南部) の在地勢力であり、武田氏の伊那侵攻以来その配下に入っていた。しかし、天正10年(1582) 織田信長の侵攻が伊那谷に及んだとき、当主ののぶうじを弟のうじながが追放して寝返り、信長から旧領を安堵された。もっともその治世は短く、本能寺の変後の混乱のなか、信氏の次男で家康に通じたよりやすによって氏長は殺害された。ただ、その頼安も天正12年(1584) の年始、敵対する小笠原信嶺の計略にかかって殺害されたてしまい、この結果、統制を失った下条氏は天正15年(1587) までに没落した※45

『下条記』には、天文13年(1544) 敵対する関氏を滅ぼしてその旧領を組み入れた時点と考えられる下条領について言及がある。それによれば、根羽村の範囲 (『根羽』『月瀬』) はその西限として記載され、また当初の下条領ではなく西へ拡大した部分と読み取れる。検地の前提となる「旧下条領」が形成されたのも同時期とみられ、信玄によるものとした場合の元亀2年(1571) よりも古い。

下条記

『下条記』は、下条氏の代々についてさかのぼって調査・編纂した記録である。著者は佐々木喜庵で、宝永年間(1704~1711) の成立と考えられている。青年時代の明暦元年(1655) に思い立ち、伝承・覚書・証文・寺社の位牌・棟札などから正しいと考えられるものを収集したが、その後は多忙となって、隠居した晩年にそれらをあらためて整理・追加調査の上で編纂したという※46

一方、『下条記』の写本の一つとされるものに『下条由来記』が存在し、『信濃史料叢書 下巻』(1969) に所収されている。市村によれば、原本と比較すると、文章の追加・削除・改変・順序の変更が多いといい、実際に意味が通らなくなった部分や事実とは思えない部分が見受けられる。しかし、基本的には『下条記』でわかりづらいところや不完全な記述を補おうとした結果と考えられ、それ以上の恣意は感じられない (粗雑であることは否定しない)。下条領の一覧も『下条記』では関氏旧領以外で明示されているのは境界付近の村々に限られるが、『下条由来記』では詳細化され、根羽・月瀬については具体的に「三州にて伐取分」となっている。

注釈

中世の三河・信濃国界

根羽村 (近世 根羽・月瀬 2村) が三河国だったことは、根羽村所在の宗源寺が近世になってもなお三河国として把握されたことから確認できる。

宗源寺はそうの末寺で、三河・遠江・駿河の 3国と伊豆国の一部を統轄するすいさいの支配下にあった。 総持寺は永平寺とともに曹洞宗の大本山となる寺院で、現在は横浜市 鶴見区に所在するが、本来は鳳至ふげし郡にあった。明治期の火災を契機に移転し、もとの場所 (石川県 輪島市 門前町) には「総持寺祖院」がある。

じょうきょう元年 (1684)『宗源寺文書』※1では、以下のように宗源寺は「参州」(三州、三河国) を自称している。

参州根羽村宗源寺ハ日域曹洞之大本寺能州総持寺之直末

宗源寺文書

これは総持寺でも同じで、『総持寺史』(1938) には以下のようにある。

総持寺史
記述記載箇所
「開山禮應俊茂 三河根羽 宗源寺」本山五院 (普蔵院・妙高庵・洞川庵・伝法庵・如意庵) それぞれの末寺 (直末) 一覧。宗源寺は伝法庵の直末として書かれている。
「賀茂郡根羽村 宗源寺」可睡斎支配下の各国 (駿河・遠江・三河・伊豆半国) 末寺一覧。
「參州根羽 宗源寺」伝法庵の輪番一覧。

この認識は明治維新を目前にしても変わらない。慶応3年(1867) と推定される※28月13日付の先触※1※3でも「参州根羽」である。

右参州根羽宗源寺去年八月當山輪番ニ罷越、今般交代ニ付、當月十六日此地出立ニ而、被致帰国候間、駅々人馬無滞差出可給候、以上

能刕 惣持寺役局 永福寺 印

卯八月十三日
能州道下より参州根羽迄 驛々問屋中

先触

一方、月瀬村の一心寺については、天明6年(1786) に宗源寺から可睡斎へ差出した文書、および文政3年(1820) の月瀬村一心寺梵鐘銘に以下のようにある※1

各史料①
記述史料
「三河国加茂郡根羽村宗源寺小末寺」 ・ 「信濃国伊奈郡月瀬村 一心寺」 ・ 「三河国賀茂郡根羽村 宗源寺 喝用」天明6年(1786) 文書。
「信州下伊奈郡遠山庄月瀬村普學山一心寺」 ・ 「三州賀茂郡根羽村 宗源十六世 梵潮音誌之」文政3年(1820) 梵鐘銘。

つまり、宗源寺は自身の所在地を三河国 加茂郡 (賀茂郡) とする一方、一心寺は信濃国 伊奈郡としている。このあたりは高椅神社の状況 (高椅: 下総・下野国界の変動を参照) と同じである。

ほかの史料もあげておけば以下のとおりである。

各史料②
記述史料
「弘化四月七月二十八日就三州加茂郡根羽村宗源寺泰明和尙得度」『顕道和尚寿碑』※4
「三州ねばね山」 ・ 「同国ねばね山いたの入」(同国 = 三州) ・ 「三州伊那郡根羽山」うじがけ※5元文元年(1736) ・ 寛保2年(1742)
「三州根羽宿」元禄5年(1692)『伊那街道等十六宿問屋手馬付通荷取締願』※6
「三州根羽村」享保5年(1720)『飯田十三町・伝馬町塩・肴商売出入裁定状等留』※7
注釈

データシート

データシート (根羽村: 三河・信濃国界)
変動地域根羽村
要因戦国期~織豊期の軍事勢力による支配地域化、および豊臣政権によるその承認
曖昧化の時期戦国期~織豊期
変動の確定時期天正19年(1591)

(参考) 県境の変動: 昭和30年(1955)

経緯

昭和30年(1955)※1岐阜県 恵那郡 村のうち、近世 美濃国 恵那郡の浅谷・須渕・一色・野原各村にあたる地域は愛知県 東加茂郡 旭村に編入された。旧・県境は美濃・三河国界にあたる。なお、残余は岐阜県 明智町に編入された。

Fig.107 (参考) 三濃村 (岐阜・愛知県境): 昭和30年(1955)
Fig.107 (参考) 三濃村 (岐阜・愛知県境): 昭和30年(1955)
天保郷帳・国絵図の村々
近世 美濃国 恵那郡

三濃村の成立年

旧・三濃村は、浅谷村 (近世 浅谷・須渕 2村)・野原村 (野原・一色 2村)・横通村 (颪・柏尾・岩竹・安・土助・才坂の 6村) の合併により成立した。岐阜県編集の『岐阜県町村合併史』(1961/1987) よれば、岐阜県における町村制施行は明治22年(1889) 7月1日であり、旧・三濃村も同日に成立した。しかし、愛知県編集の『市町村沿革史』(1968) はこれを明治23年(1890) 5月1日としている。ごく自然に考えて岐阜県の情報が正しいが、愛知県が何によって明治23年(1890) 5月1日としたのかはわからない。なお、愛知県における町村制施行は明治22年(1889) 10月1日なので、これに引きずられたわけでもない。

同じ『角川日本地名大辞典』でも岐阜県※9では明治22年(1889) だが、愛知県※10では明治23年(1890) となっている。『旭町誌 通史編』(1981) では混在し、「村落誌」では明治22年(1889) だが「行政・財政」「年表」では明治23年(1890) となっている。

注釈

野原村の伝承

『恵那郡史』(1926/1982) には野原村について以下のように記載されている。

この地もと三河國であつた。それが美濃國の內となつたについて、この地方では次のやうに傳へられてゐる。それは足利將軍の威勢やうやく輕く、地方亂れて豪强の族は互に割據する頃であつた。東三河の山間部のさる大名はその姬を、霧ケ城主なる遠山氏に遣した。矢矧の流れを渡つて遠く水晶山下に遠山の若殿と伉儷相契る姬の門出に、その化粧料として割き與へた地が野原の一邑であるとか。それかあらぬか今三濃村高瀨家にある毘沙門天の棟札には、長祿三年三州賀茂郡足助庄仁木鄕野原村とあるといふ。

恵那郡史

これによれば当地域でも過去に国界の変動があった可能性が示唆される。しかし、伝承は伝承以上のものではなく、それを差し引いてもなお具体性に乏しい。なお、同じ内容を口語訳したものが『旭町誌 資料編』(1981) でも紹介されている。同誌によれば、近世 野原村の一部である上切 (現在の豊田市 上切町) に高瀬姓が 2世帯含まれ、地図に「毘沙門堂跡」があることは確認できる。また『岐阜県町村合併史』(1961/1987) によれば、「殊に三濃村大字野原の区域は、かつて旭村とともに三河国に属し、旭村八幡社の同一氏子として、その祭神を中心に日常のまじわりが深かい関係にあった」という。

更新履歴

内容

:

  • 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。

:

  • 『国絵図と国界』の一部として修正。

:

  • 同、追補。

:

  • 同、新規作成。