ここでは、近代に変更された摂津・和泉国界 (国境) と、そのまさに変動したエリアである堺付近について分析しています。

そもそもどこか?

変動の舞台は、現在の大阪府 堺市の北部で、近世 摂津せっつ国 住吉郡の大和川以南 各村 (近世 七道村・村・万屋新田・庭井村・北花田村・浅香山村・せんどう村・花田新田・奥村・南島新田・弥次郎新田・大豆まめづか村、うち七道・遠里小野・庭井の各村は一部)、および堺町北組である。地形図にその範囲を重ねて示せば以下とおり。

Fig.181 堺付近 (摂津・和泉国界): 明治4年(1871)
Fig.181 堺付近 (摂津・和泉国界): 明治4年(1871)
天保郷帳・国絵図の村々
近世 摂津国 住吉郡
近世 和泉国 大鳥郡
  • 1. きたしょう※13
  • 2. 中筋村
  • 3. 舳松へのまつ
  • 4. 万屋新田
  • 5. 松屋新田
  • 6. 湊村※14
  • 7. 山本新田
  • 8. 平田新田

変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が変更前の国界 (国境)、濃紫色が変更後の国界である。見てわかるように、この範囲は摂津国のうち、大和川より南にあって地形的な飛地となっていた。『天保常陸国絵図』で示せば、以下に示す部分である。

Fig.652 天保摂津国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.652 天保摂津国絵図 (国立公文書館所蔵)
注釈

要因と経過

和泉国と摂津国は、古代の条里と堺の街を囲む濠 (堀)、および大小路おおしょうじによって分けられていた。また、本来この付近に大和川は流れておらず、変動エリアも地形的に分断されることなく、摂津国のほかの地域とつながっていた。この状況が変わるのが大和川の新流路開削である。以下に『元禄河内国絵図』(左) と『天保河内国絵図』(右) を示す。

Fig.504 元禄河内国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.504 元禄河内国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.505 天保河内国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.505 天保河内国絵図 (国立公文書館所蔵)

大和川は、大和盆地 (奈良盆地) 東部の山地を源流とする河川で、盆地内で支流を集め、生駒山地と金剛山地の間を貫流して大阪平野へ流れ出ている。『元禄河内国絵図』(左) に描かれているように、大阪平野における本来の流路は北方向であり、分流しながら深谷池や新開池といった沼を形成し、最終的には現在の淀川にあたる河川へ合流していた。しかし沼が形成されていたことからわかるように、その下流部は低湿地であって、これに天井川※1であることも加わり、常に洪水に襲われるような土地だった。そこで、宝永元年(1704) 台地 (上町台地) を横断する新流路が開削され、大和川は大阪湾に直接注ぐように短絡された。『天保河内国絵図』(右) に描かれているのはこの新流路である。絵図には旧流路も引き続き「大和川」として残されているものの、細流として描かれ、また途中で途切れている。

地形的な飛地はこのように生じ、江戸中期~後期はそのままに経過した。しかし、近代に入ると行政上の不便が生じて、まず明治元年(1868) 10月24日付で、飛地の各村は「摂津県」から大和川南岸の「堺県」に※2編入・統合された (ただし引き渡しは明治2年(1869) 1月20日以降)※3※4。そして明治4年(1871) 9月末付で、国郡も改められて摂津・和泉の国界が変更された※3※5

注釈

は摂津・和泉の国界に位置し、古くから交通の要衝として栄えた貿易都市である。中世から近世はじめにかけては、特に港湾都市としての発展が著しく、室町期以降は街の三方を囲む濠 (堀) が整備され、有力商人よる自衛・自治の体制が整えられた。しかし、秀吉による大坂への移住指示後は堀も埋められ、大坂の陣では戦渦に巻き込まれて壊滅し、復興後も鎖国の影響で受けて貿易は衰退した。以下に享保20年(1735) に刊行された『改正堺大絵図綱目』を示す。

Fig.654 享保20年(1735): 改正堺大絵図綱目 (大阪府立中之島図書館所蔵・国書データベース公開)
Fig.654 享保20年(1735): 改正堺大絵図綱目 (大阪府立中之島図書館所蔵・国書データベース公開)

この絵図には、再び整備された環濠や当時の街割、海側の中央にある湊や石積の築堤が描かれている。その湊へ向かって街を横断する大きな通りは大小路おおしょうじと呼ばれ、大小路より北 (北東) が摂津国、南 (南西) が和泉国である。また、北側の環濠は同様に国界であり、七道駅 (南海本線) や浅香山駅 (南海高野線) 付近から見ると、摂津国は和泉国の側へ突出するようなかたちになっていた。なお、近代に入って環濠はほとんど埋められてしまったが、街の基本的な形は変わっていないので、現在の地形図においても街の範囲は容易に読み取れる。

絵図にはすでに大和川が描かれている。大和川の新流路開削は、旧流路の排水を促進して低湿地の開発を容易にし、新流路で失われた農地よりも遥かに広い新田が新しく拓かれた。他方で新流路は上流から大量の堆積物を運び、これによって湊の機能はさらに失われ、以後、堺は純粋な商業都市へと変容していった。

更新履歴

内容

:

  • 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。

:

  • 『国絵図と国界』の一部として追補。

:

  • 同、修正。

:

  • 同、新規作成。