ここでは、古代および近代に発生した大隅・薩摩国界 (国境) の変動と、その変動したエリアである菱刈について分析しています。

そもそもどこか? (古代)

変動の舞台は、現在の鹿児島県 伊い佐さ市の北部である。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

全体
Fig.162 菱刈 (大隅・薩摩国界): 古代
Fig.162 菱刈 (大隅・薩摩国界): 古代
詳細
Fig.103 菱刈 (大隅・薩摩国界): 古代
Fig.103 菱刈 (大隅・薩摩国界): 古代
薩藩政要録の村々※1
薩摩国 伊佐郡 大おお口くち郷※2
  • 23. 里村
  • 24. 青木村※3
  • 25. 目丸村※4
  • 26. 牛尾村※5
  • 27. 渡田わたりだ村※6
  • 28. 木之氏村※7
  • 29. 篠原村※8
  • 30. 平ひら出水いずみ村※9
  • 31. 小こ木ぎ原はら村※10
  • 32. 淵ふち辺べ村
  • 33. 原はら田だ村※11
  • 34. 小こ川内がわち村
  • 35. 大田村※12
  • 1. 市山村※13※14
  • 2. 花北村※13※15
薩摩国 伊佐郡 羽は月つき郷※16
  • 36. 田代村
  • 37. 下しも殿との村※17
  • 38. 大島村
  • 39. 金かね波は田だ村
  • 40. 堂崎村※18
  • 41. 白木村
  • 42. 宮人村
  • 43. 川かわ岩いわ瀬ぜ村
  • 44. 鳥とり巣す村
薩摩国 伊佐郡 山野郷
大隅国 菱刈郡 湯之尾郷※20
  • 3. 川北村
  • 4. 川南村
大隅国 菱刈郡 馬ま越こし郷※21
大隅国 菱刈郡 曽木郷※24
大隅国 菱刈郡 本城郷※29
  • 10. 重留村※30
  • 11. 下しも手で村
  • 12. 荒田村※31
  • 13. 南浦村※32

変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が推定される変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界である。『天保薩摩国絵図』で示せば、以下の部分にあたる。

天保薩摩国絵図
Fig.363 天保薩摩国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.363 天保薩摩国絵図 (国立公文書館所蔵)
天保大隅国絵図 (変動なし)
Fig.916 天保大隅国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.916 天保大隅国絵図 (国立公文書館所蔵)
注釈

要因と経過 (古代)

大隅国の郡のうち、近世の菱ひし刈かり郡の領域はかなり狭く、現在の鹿児島県 伊佐市の南部 (いわゆる『平成の大合併』以前の旧・菱刈町) に相当する範囲に限定される。これは中世に荘園が展開されるなかで変動を経験したためであり、本来は、近世は薩摩国 伊佐郡に含まれる北部 (旧・大口市) も菱刈郡だったと考えられている。

この荘園は「牛屎院」といい、史料の上では、天てん承しょう2年(1132) の『僧経覚解』※1に「牛屎真幸両郡」としてはじめてあらわれる。また、安あん元げん3年(1177) の『右近衛府うこんえふ政所まんどころ下文くだしぶみ』※2には「薩摩國牛屎郡」とあり、牛屎院はすでにこの時点で、大隅国ではなく薩摩国の一部と見なされていたことがわかる。

なお、ここで「牛屎郡」とあるように、広大な荘園が「郡」で呼称される例は少なくない。古代の郡がそのまま荘園としての郡に変化してしまった例もあり、なし崩し的に発達した荘園は、はじめから整理され体系化されたものだったわけではない。牛屎院についても、文ぶん治じ3年(1187) の『源頼朝下文』※3では「薩摩國牛屎院」、建久8年(1197) の『薩摩国建久けんきゅう図田帳ずでんちょう』でも「牛屎院」とされ、以後は基本的に「牛屎院」と呼称されている。しかしその一方で、文ぶん永えい3年(1266)『島津道仏譲ゆずり状じょう』※4で「薩摩國牛屎郡」とあるなど、はじめ郡と院の表記は一定しなかったようだ。

安元元年(1175) の『右近衛うこんえ府牒ふちょう』※5、および安元3年(1177)『右近衛府政所下文』には、当時発生していた係争の内容と、当事者である郡司・太秦うずまさ元光の名前が示されている。太秦氏は、先祖の元平が康こう和わ2年(1100) に任じられて以来、郡司を勤めてきたとされ、その後も代々郡司 (院司) を継承して牛屎氏を名乗るようになった※6。

しかし、室町中期ごろになると、菱刈氏や肥後の人吉を根拠地とする相良氏の影響が強まり、牛屎氏は牛屎院を追われたようである。また、これと相関するものかははっきりしないが、寛かん正しょう6年(1465) の『薩摩国牛山院坪付』※7に「薩摩國牛山院」とあるように、この時期から「牛山院」という呼称もあらわれる。ただし、のちの天てん正しょう8年(1580)『島津氏老臣連署坪付』※8では「薩州牛屎院」と記され、立場や状況に応じて、その後も両呼称は併存しつづけた。

菱刈郡

薩摩・大隅・日向 3国の旧領域は曖昧である。これは、もともと日向一国であったものから、和銅2年(707) までに薩摩国が、さらに同6年(713) に大隅国が分国 (分置) された経緯によるが、その最後に分置された大隅国にあっても、菱刈郡が建置された時期はさらに遅い。大隅国には、はじめ肝坏 (肝きも属つき)・贈於 (囎そ唹お・曽於)・大隅・姶あい羅らの 4郡しか存在しなかった。その後、ここに桑原郡と菱刈郡が加わることになるが、なかでも菱刈郡については、『続日本紀』の以下の記事から天てん平ぴょう勝しょう宝ほう7年(755) 5月に建置されたとみなされている。

Fig.367 続日本紀 第19巻 慶長19年(1614) 写本 (国立公文書館所蔵)
Fig.367 続日本紀 第19巻 慶長19年(1614) 写本 (国立公文書館所蔵)

大隅国菱刈村の浮ふ浪ろう九百三十余人が、『郡家こおりのみやけ (郡の役所) を建てたい』というので、これを許した。

大隅國菱苅村浪浮九百三十餘人言慾建郡家許之

続日本紀: 天平勝宝7年(755) 5月19日

このような経緯による菱刈郡が、どの程度の領域をどれほど長く支配できたのかはわからない。少なくとも北部については、史料にあらわれた時点で牛屎院として認識され、菱刈郡としての記録も記憶も残っていない。

一方、現在の伊佐市のうち、菱刈郡として残った南部も平安末期までに荘園化した。建久8年(1197) の『大隅国建久図田帳』では、島津庄の「寄郡七百十五丁八段三丈」に横河院や串良院などと並んで「菱刈郡」が含まれている (島津庄や寄郡については『島津庄』を参照)。この荘園としての菱刈郡は、牛屎郡と同様しばらくは「郡」の呼称のまま経過した。しかし、貞和6年(1350) の『足利直義書下』※9で「大隅国菱刈院」の表記があらわれて以降、荘園を指して「菱刈郡」と呼ぶ例は見られなくなる。『島津国史』※10や『忠元勲功記』※11などによれば、この領域は「太良院」とも、あるいは牛屎院とあわせて「菱刈両院」とも呼ばれたという。

注釈

そもそもどこか? (近代)

菱刈では、近代に入って再び国界が変動した。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

全体
Fig.164 菱刈 (大隅・薩摩国界): 明治29年(1896)
Fig.164 菱刈 (大隅・薩摩国界): 明治29年(1896)
詳細
Fig.165 菱刈 (大隅・薩摩国界): 明治29年(1896)
Fig.165 菱刈 (大隅・薩摩国界): 明治29年(1896)

変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界である。『天保大隅国絵図』で示せば、以下の部分にあたる。

天保薩摩国絵図 (変動なし)
Fig.915 天保薩摩国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.915 天保薩摩国絵図 (国立公文書館所蔵)
天保大隅国絵図
Fig.364 天保大隅国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.364 天保大隅国絵図 (国立公文書館所蔵)

要因と経過 (近代)

明治29年(1896) 3月、郡制の施行にともない、大隅国 菱刈郡と薩摩国 北伊佐郡は統合され、新たに薩摩国 伊佐郡が編成された。同年 3月29日付の法律第55号 (官報 3月30日) による。

法律第55号
Fig.355 鹿児島県下国界変更及郡廃置法律・御署名原本・明治二十九年・法律第五十五号 (国立公文書館所蔵)
Fig.355 鹿児島県下国界変更及郡廃置法律・御署名原本・明治二十九年・法律第五十五号 (国立公文書館所蔵)
法律第55号
Fig.365 鹿児島県下国界変更及郡廃置法律・御署名原本・明治二十九年・法律第五十五号 (国立公文書館所蔵)
Fig.365 鹿児島県下国界変更及郡廃置法律・御署名原本・明治二十九年・法律第五十五号 (国立公文書館所蔵)

鹿児島県 (管轄下の) 大隅国 菱刈郡、および同県 (管轄下の) 薩摩国 北伊佐郡を廃し、その区域をもって伊佐郡を置き、薩摩国に属するものとする。

鹿兒島縣大隅國菱刈郡及同縣薩摩國北伊佐郡ヲ廢シ其ノ區域ヲ以テ伊佐郡ヲ置キ薩摩國ニ屬ス

法律第55号 (明治29年(1896) 3月29日付)

これによって菱刈郡は消滅し、大隅・薩摩の国界はさらに南へ異動することとなった。なお、このとき生まれた伊佐郡が、その後の市町村合併を経て現在の伊佐市となっている。

データシート

データシート (古代 / 菱刈: 大隅・薩摩国界)
変動地域菱刈
要因なし (当初から曖昧)
曖昧化の時期なし (当初から曖昧)
変動の確定時期古代
データシート (近代 / 菱刈: 大隅・薩摩国界)
変動地域菱刈
要因郡制施行にともなう再編
変動の確定時期明治29年(1896) 3月

更新履歴

内容

:

  • 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。

:

  • 『国絵図と国界』の一部として、新規作成。