ここでは、古代および近代に発生した日向・大隅国界 (国境) の変動と、その変動したエリアである財部・深河・救仁について分析しています。
そもそもどこか? (古代)
変動の舞台は、現在の鹿児島県 曽於市の北部と志布志市・大崎町である。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

薩藩政要録の村々※1
変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が推定される変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界である。『天保日向国絵図』・『天保大隅国絵図』で示せば、以下の部分にあたる。
注釈
範囲 (古代)
変動した財部・深河・救仁の範囲は曖昧模糊としている。その要因は、基本的に薩摩・大隅・日向の 3国 (薩隅日) それぞれの旧領域が曖昧であることに起因するが、当地が長く未開発の地域として取り残されていたことも影響している。そのため、ここでは比較的範囲がはっきりしている北部の財部、および南部の救仁の領域を拡張するかたちで、全体の範囲を推定した。
深河については、範囲を特定可能な史料がなく、境界になり得るような明瞭な地形も存在しないため、厳密な特定は難しい。また、救仁については範囲自体の特定は容易でも、もともと大隅国と日向国のどちらであったのかがわかる史料は存在せず、本稿で変動エリアに含めたのは地形の連続性から推定したものに過ぎない。
薩摩・大隅・日向 3国の旧領域が曖昧であるのは、もともと日向一国であったものから、和銅2年(707) までに薩摩国が、さらに同6年(713) に大隅国が分国された経緯による。3国の国界はもとの郡界であり、はじめから国界だった境界に比べればはっきりしない。また、このような分国の経緯からもわかるように、当地にヤマトの影響が及んだ時期は遅く、律令制も十分に浸透する前に崩壊してしまった。したがって、ふつう知られている 3国の国界は、平安末期から中世にかけての荘園の展開にともなって固定されたものであり、それより前にさかのぼることは難しい。
要因と経過 (古代)
財部・深河・救仁の各地域における日向・大隅の国界は、平安末期以降、財部院、深河院、および救仁郷・救仁院としてそれぞれ開発された領域である。本来の大隅国ではなく日向国、あるいはこの逆とみなされたのは、それぞれの開発領主の認識によって大隅 (または日向) の拡張部分とみなされたためと推定される。ただし前述のとおり、これらの地域は長く未開発のまま取り残されていた。そのため、特に深河と救仁の両地域については、本来どちらの国であるのかが認識されないまま、荘園として開発されてしまった可能性が残る。
財部院
財部院は、古代の日向国 諸県郡 財部郷のうち、拡張的に開発された部分が島津庄の一部として分離され、成立したと考えられる荘園である。史料の上では、建久8年(1197) の『大隅国建久図田帳』にはじめてあらわれ、「嶋津庄 殿下御領 地頭衛門兵衛尉」の「新立庄七百五十丁」の内訳に「財部院百余丁」として含まれている。「深河院百五十余丁」「多禰嶋五百余丁」とともに「件三箇所保延年中以後新庄、不随国務也」と付記されていることから、保延年間(1135~1141) 以後に成立した荘園とわかる。
この大隅国の財部院とは別に、『日向国建久図田帳』には「殿下御領島津庄田代三千八百三十七町」の「一円庄二千二十町」の内訳として「財部郷」が存在する。これは古代の財部郷のうち、財部院として分離されなかった残部と考えられる。財部院と同様に島津庄を構成することからわかるように、これは荘園の一形態としての郷であり、律令制下の郷としての性質はすでに失われている。
財部院・財部郷は、その後それぞれ上財部 (大隅国)・下財部 (日向国) と呼ばれるようになった。このため、変動エリアの一部としての財部 (財部院) の範囲は、上財部 (曽於市 財部町北俣・財部町南俣) の範囲から特定できる。
深河院
深河院は、財部院と同じく建久8年(1197) の『大隅国建久図田帳』に「深河院百五十余丁」として含まれる荘園であり、保延年間以後の成立という背景も共通している。
この深河院は、近世の「深川村」に由来する現在の曽於市 末吉町深川付近を領域としていたと考えられるが、前述のとおり史料や明瞭な地形を欠くため、厳密な範囲の特定は難しい。このため、北部の財部、および南部の救仁の領域を拡張するかたちで、その領域を推定した。
救仁郷・救仁院
救仁郷と救仁院は、どちらも『日向国建久図田帳』に、財部郷と同じく「殿下御領島津庄田代三千八百三十七町」の一部として含まれる荘園である。ただし、前者は「一円庄二千二十町」に「救仁郷百六十町」として、後者は「寄郡千八百十七町」に「救仁院九十町」として記され、区別されている。
救仁郷は現在の大崎町に志布志市の西端部を加えた領域に、救仁院は志布志市の残部 (大部分) にあたる領域に、それぞれ展開されたと考えられる。このほか、曽於市 大隅町月野にあたる部分がどちらかの領域に含まれていたと考えられるが、判断に十分な史料を得られない。またがるかたちで、どちらにも含まれていた可能性も残る。また、いずれにせよ前述のとおり、救仁 (救仁郷・救仁院) という領域の特定は容易でも、もともと大隅国と日向国のどちらであったのかがわかる史料は存在せず、本稿で変動エリアに含めたのは地形の連続性から推定したものに過ぎない。
島津庄
島津庄は、万寿年間(1024~1028) 太宰府官の平季基が開発し、関白の藤原頼通に寄進して成立した巨大な荘園である。日向国 諸県郡から領域を広げ、最盛期には日向・大隅・薩摩の 3国にまたがる広大な荘園となった。島津庄は、いくつもの小荘園から構成される複合的な荘園であり、財部郷・財部院、深川院、および救仁郷・救仁院もその一部だった。
島津庄の文脈でいう一円庄とは、領主が全面的に (一円に) 支配し、私領として成立していた荘園を指す。これに対し、寄郡 (よせごおり/よりごおり) は、税を領家と国衙で折半し、依然として国衙の干渉を受けていた荘園である。救仁郷が一円庄、救仁院が寄郡であることを踏まえると、財部院もまた、はじめは寄郡だったものが、のちに図田帳に「不随国務也」と示される私領 (一円庄) へと移行していった可能性が高い。
図田帳
図田帳は、主に鎌倉幕府が各国守護に命じて作成させた土地台帳であり、大田文とも呼ばれる。一国ごとに国衙領や荘園が書き上げられ、耕地面積・領有関係などが記録されている。建久8年(1197) にまとめられた「建久図田帳」は、薩摩・大隅・日向の 3国のものが知られ、『薩摩国図田帳写』が『川内市史料集 2 薩摩国新田神社文書2』(1973)※1に、『大隅国建久図田帳』が『大隅国建久図田帳小考』(1960, 五味, 日本歴史 142)※2に、(日向国)『建久図田帳』『日向郷土史料集 第5巻』(1963)※3に、それぞれ所収されている。
院
「院」は荘園の形態・呼称のひとつである。律令制の衰退にともなって発達した荘園に体系はなく、荘/庄・院・保・御厨・御薗/御園など、さまざまな形態・名称で成立していった。「院」は薩摩・大隅・日向に集中して多い。
注釈
そもそもどこか? (近代)
財部・深河・救仁では、近代に入って再び国界が変動した。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界である。『天保日向国絵図』で示せば、以下の部分にあたる。
要因と経過 (近代)
この近代の国界の変動は、薩摩藩独自の行政単位である「郷 (外城)」と、公的な「村」における国郡のねじれを解消すること、および郡制の施行にともなう郡の統合によるものであり、古代の変動にまでさかのぼって直接の関連を見出せるものではない。
まず、明治5年(1872) 4月※1に日向国 諸県郡の下財部村が大隅国 囎唹郡に編入された。この下財部村は、中世の財部郷にあたる地域である。近世の同村は、中世の財部院にあたる大隅国 囎唹郡の南俣・北俣の 2村 (上財部) とともに、薩摩藩の行政単位である近世の財部郷を構成していた。中世を財部院・財部郷 (上財部・下財部) として経過した両地域は、近世の藩政下でひとつの郷として一体化したわけである。
しかし、郷 (外城) はあくまでも薩摩藩における行政単位に過ぎず、国絵図・郷帳における (公的な) 国郡としては分かれたまま (下財部村は日向国、南俣・北俣は大隅国) だった。この「同じ行政単位に含まれながら、国郡は異なる」というねじれを解消するために、下財部村は大隅国 囎唹郡に編入された。なお、郷 (外城) に対して薩摩藩内で設定された国郡は、従来から大隅国 囎唹郡だった。
同様の理由から、日向国 諸県郡の南之郷村も同時期に大隅国 囎唹郡へ編入された。同村は、大隅国 囎唹郡の岩崎・深川・二之方・諏訪方・五拾町・中之内の各村とともに近世の末吉郷を構成し、やはり「同じ行政単位に含まれながら、国郡は異なる」というねじれが生じていた。郷 (外城) 自体に設定された国郡も大隅国 囎唹郡だった。なお、南之郷村の編入時期は厳密には不明だが、合理的に考えて下財部村と同時期だったと推定される。この時期は、地租改正を控えて、全国的にも地方行政区画の整理・統合が集中した時期であった。
その後、明治29年(1896) 3月には郡制の施行にともない、日向国 南諸県郡と大隅国 東囎唹郡は統合され、新たに大隅国 囎唹郡が編成された。同年 3月29日付の法律第55号 (官報 3月30日) による。
鹿児島県日向国南諸県郡および同県大隅国東囎唹郡を廃し、その区域をもって囎唹郡を置き、大隅国に属するものとする。
鹿兒島縣日向國南諸縣郡及同縣大隅國東囎唹郡ヲ廢シ其ノ區域ヲ以テ囎唹郡ヲ置キ大隅國ニ屬ス
南諸県郡は近世 諸県郡のうち鹿児島県の管轄となった部分であり、地形図からもわかるように、中世の救仁郷・救仁院が展開された領域に相当する。つまり、結果的としてその領域は本来の大隅国へ戻ることになった。もっとも、この時点で南諸県郡に含まれていたのは、大崎村・野方村 (近世 大崎郷)、東志布志村・西志布志村・月野村 (同 志布志郷)、および松山村 (同 松山郷) である。この変動は近代の行政上の措置に過ぎず、当事者である住民たちに、当地がかつて大隅国だったという記憶が残っていたわけではなかった。
注釈
外城と薩藩政要録
外城
外城は、複数の村で構成された薩摩藩における行政単位である。中心となる村は「麓」と呼ばれ、九州南部に「麓」や「馬場」を含む小字が多いのはこれによる (馬場は麓に整備された街路を呼ぶ)。当初はその名前にあるとおり軍事的な意味合いが強かったが、のちにこれが薄れ、「郷」に改称された。数え方や時期によってその数は一定しないが、延享元年(1744) 以後は 113の外城 (郷) となり、固定化されている。
薩藩政要録
薩藩政要録は、薩摩藩の藩政における諸制度・重要事項をまとめた要録であり、原題は『要用集』という。文政11年(1828) のものが『鹿児島県史料集 1 薩藩政要録』(1960)」として、嘉永4~5年 (1851~1852) ごろのものが『鹿児島県史料集 29 要用集 上』(1988)・『鹿児島県史料集 29 要用集 下』(1989) として翻刻・刊行されている。
そのうち「諸郷郡分地頭附幷郷士人躰持高之事」には外城 (郷) の情報がまとめられており、構成する各村の一覧も示されている。本稿では、近世の村々をあらわす際には天保国絵図・郷帳を基準としているが、薩摩・大隅・日向の各国については薩藩政要録を参照した。これは、これら 3国の天保国絵図・郷帳の内容が元禄国絵図・郷帳から変更されておらず、ほかと同列には扱えないためである。時期に関しては、薩藩政要録と天保国絵図・郷帳とで大きな違いはない。なお、番号は天保国絵図・郷帳と同様、記載されている順に郡単位で筆者が振ったものである。
データシート
| 変動 | 財部・深河・救仁 |
|---|---|
| 要因 | なし (当初から曖昧) |
| 曖昧化の時期 | なし (当初から曖昧) |
| 変動の確定時期 | 古代 |
| 変動 | 財部・深河・救仁 |
|---|---|
| 要因 | 明治初期の是正、および郡制施行にともなう再編 |
| 変動の確定時期 | 明治5年(1872) 前後、および明治29年(1896) 3月 |
更新履歴
内容
:
- 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。
:
- 『国絵図と国界』の一部として、新規作成。










