ここでは、下総国を形成した地理として、利根川・鬼怒川の流路と縄文海進・内海、そして谷津の発達の著しい洪積台地について分析しています。

利根川・鬼怒川の流路

変遷

大河川は、上流部から大量の土砂を運び、その流域を埋め立てて平らな土地をつくっていく。それが四方を山々に取り囲まれたところであれば盆地であり、河口がある海に接したところであれば平野 (沖積平野) である。関東平野もそうした作用をひとつの要因として現在の形に定まった。たとえば、中川低地および東京低地と呼ばれる、埼玉県・東京都の東部で千葉県と接する付近の低地には、深いところで 60~70メートルに達するか、あるいはそれを越えるような深い谷が地下に存在する。それを河川が供給する大量の土砂が埋め立てたことで現在の景観が形成された。

そうした分厚い堆積層が形成される過程は、日本で文字による記録が行われるようになるころにはほとんど終わっていた。視点を変えれば、こうして平坦な低地が出来上がってようやく大規模な稲作を行えるようになり、やがて文字を受容できるほどに、あるいは文字を必要とするほどに、文化は成熟して律令国家にいたるわけである。一方で河川の運動が止まったはずもなく、河川の恩恵を受けた文化は、河川の脅威をどうしたら回避できるのか、あるいはせめて緩和できるのか、常に考えなければならなくなった。

沖積平野を流れる河川は自身がつくり出した自然堤防によってその流路 (河道) を固定する。つまり洪水のときに運ばれてくる土砂は流路から溢れ、その両側に堆積して微高地を形成する。これが自然堤防であり、通常の流量であれば自然堤防で固定された範囲しか流れない。再び洪水があれば自然堤防を越えるかもしれないが、溢れた水は自然堤防の向こうに溜まって後背湿地をつくる一方、土砂は自然堤防を補強する。そして、やがて水量が落ち着けば川は再びもとの流路を流れていく。しかし河道にも土砂は堆積するから、これもやがて限界に達して川は別の河道を探すことになり、こうして河川の流路は変化する。ただしほとんど勾配のない平野では、河川はまるでのたうつように曲がりくねって流れ、また頻繁に分流と合流を繰り返して網の目状の流域を形成する。流路が変わるといっても、それは漸次進行するものであって、新たな流路はかつて流れていたところかもしれない。

利根川は全国で 2番目に長く、流域面積では最大の河川である。群馬県の山間部を源流域として、同県内と群馬・埼玉県境を流れ、さらに現在は茨城・千葉県境を流れて銚子で太平洋に注ぐ。また鬼怒川は、栃木県の山間部から同県内を還流し、茨城県の南西部を流れて利根川に合流する河川で、長さ・流域面積ともその最大の支流である。しかし、どちらもはじめからこのように流れていたわけではない。9世紀はじめは、以下の左に示すように流れ、その後は右に示すように変化したと考えられている。

Fig.205: 古代の河川流路
Fig.205: 古代の河川流路
Fig.069: 中世の河川
Fig.069: 中世の河川
流路の変化 (古代~中世)
記号変化
Ⓐ利根川の本流が上流部で南へ移る。もとの流路は、のち合あいの川と呼ばれるようになる。
Ⓑ利根川の本流が中流部で東へ移る。もとの流路のうち、荒川と合流する地点から下流は荒川単独の本流となり、残る上流部は、のち古ふる隅すみ田だ川と呼ばれるようになる。
Ⓒ利根川の本流が下流部で東に移る。もとの流路のうち、入いる間ま川と合流する地点から下流は入間川単独の本流となり、残る上流部は、ここでものち古ふる隅すみ田だ川と呼ばれるようになる。
Ⓓ渡わた良ら瀬せ川 (太ふと日ひ川) へ合流する利根川の分流が現れる (または水量を増す)。
Ⓔ鬼怒川の本流が西に移り、もとの流路は小こ貝かい川単独の本流になる。
Ⓕ渡良瀬川の本流が東に移り、利根川とは独立した流れになる。
Ⓖ南へ流れて利根川に合流する、渡良瀬川の分流が現れる (または水量を増す)。
Ⓗ鬼怒川の影響が小さくなって、騰と波江ばのえ※1は陸地化していく (または干拓されていく)。なお、残部はのちに大だい宝ほう沼と呼ばれるようになった。

さらに近世はじめまでに以下のような変化があったとされる。

Fig.070: 中世から近世はじめにかけての河川
Fig.070: 中世から近世はじめにかけての河川
流路の変化 (中世~近世)
記号変化
Ⓐ鬼怒川の元の本流が下妻付近で北へ移る。
Ⓑ利根川の本流が上流部で北東へ移り、もとの流路はのち、会あいの川と呼ばれるようになる。
ⒸⒹⒺ利根川の本流が中下流部で東に移り、もとの流路はのち、おおむね ⒸⒹ では古ふる利と根ね川、おおむね Ⓔ では中川と呼ばれるようになる。また利根川と渡良瀬川の流路はふたたび同じになる (渡良瀬川の流路が利根川に奪われる)。
ⒻⒼⒽ近世に入って、Ⓕ 天てん正しょう2年(1574) に古利根川の分流部が、Ⓖ 天正4年(1576) に渡良瀬川分流が、Ⓗ 文ぶん禄ろく3年(1594) に会の川の分流部が、それぞれ人工的に締め切られる。それぞれの水量は、Ⓑ~Ⓔ の流路変化 (またはその原因となった土砂の堆積による河床の上昇など) にともなって、当時の技術力でも締め切ることができるほどに減少していたと考えられる。

江戸期に入ると、人工的な流路変更が本格的に行われるようになった。まず元和年間(1615~1624) に左上の変更が行われ、寛永年間(1624~1644) には右上・左下・右下の変更が行われた。

Fig.071: 元和年間の河川
Fig.071: 元和年間の河川
Fig.072: 寛永年間の河川(1)
Fig.072: 寛永年間の河川(1)
流路の変化 (元和年間)
記号変化
Ⓐ元げん和な7年(1621) 分流の蛇行部が人工的に短絡され、この区間は短絡部の前後も含めて「新川通」と呼ばれるようになる。
Ⓑ同年、台地が人工的に開削され、この区間は常陸川の最上流部も含めて「赤堀川」と呼ばれるようになる。
流路の変化 (寛永年間①)
記号変化
Ⓐ寛かん永えい年間(1624~1644) 利根川と会の川 (中世の利根川) 合流部の上流が人工的に締め切られる。締め切られた部分のさらに上流側では流れが逆方向になる。
Ⓑ利根川の流路が東に移る (移される)。この新たな流路と、もとの流路との接続する①の流路、常陸川と接続する②の流路 (逆さかさ川) の形成過程は、時期や人工・自然の程度も含めてはっきりしない。
Fig.073: 寛永年間の河川(2)
Fig.073: 寛永年間の河川(2)
Fig.074: 正保年間の河川
Fig.074: 正保年間の河川
流路の変化 (寛永年間②)
記号変化
Ⓒ寛永6年(1629) 小貝川・鬼怒川新流路が開削され、鬼怒川が小貝川から分離される。これによって、鬼怒川はより上流で常陸川 (のちの利根川)と合流するようになり、旧流路は小貝川単独の本流になる。
Ⓓ寛永7年(1630) 小貝川・常陸川新流路が開削される。これにより、鬼怒川と分離された小貝川も、より上流で常陸川と合流するようになり、また合流後の小貝川・常陸川の流路は南へ移される。旧流路は廃される。
流路の変化 (寛永年間③)
記号変化
Ⓔ寛かん永えい12年(1635) から18年(1641) にかけ、新たな流路が「新川」として開削される。

新川は現在の江戸川の原形である。ただし、この新川にしろ新川通・赤堀川にしろ、はじめから十分な幅・深さをもっていたわけではない。その後も拡幅・浚渫は繰り返され、特に赤堀川の流量が十分になるのは元禄年間(1688~1704) と考えられている。現在の利根川 (および利根川分流としての江戸川) と変わりない姿を想像できるのはこれ以降のことである。

開削規模

江戸前期の利根川の人工的な流路変更は「利根川の東遷」としてひと括りにされ、またはじめから一貫した計画に基づく「事業」であるかのように語られることが多い。これは直接の記録がまったく残っておらず、すべて近世の地誌や近代はじめの論考に依存するためで、少なからず当時の主観が入り交じってしまった結果といえる。当然ながら、直接の記録がない以上はそれらが間違っているともいえないが、少なくとも現在の地形図から読み取れる客観的な事実として、台地の開削距離を整理しておきたいと思う。

まず赤堀川について以下の左に、鬼怒川新流路と小貝川・常陸川新流路について右に示す。

Fig.085 赤堀川付近の地形
Fig.085 赤堀川付近の地形
Fig.086 板戸井・戸田井〜羽根野・布川〜布佐付近の地形
Fig.086 板戸井・戸田井〜羽根野・布川〜布佐付近の地形
天保郷帳・国絵図の村々 (左)
近世 下総国 葛飾郡※2
  • 23. 中田町※3
  • 24. 中田新田村
  • 33. 高野村
  • 34. 水海村※4
  • 35. 前林村※5
  • 39. 川かわ妻つま村※6
  • 40. 小手指村※7
  • 41. 大福田村※8
  • 42. 小福田村
  • 43. 新しん幸こう谷や村
  • 44. 元栗橋村※9※10
  • 45. 冬木村
  • 47. 山王村※11
近世 武蔵国 葛飾郡※12
  • 244. 外そと国府こう間ま村
  • 245. 高須賀村※13※14※15
  • 246. 松石村
  • 254. 狐塚村
  • 255. 中里村※16
  • 256. 小右衛門村
  • 257. 広島村※16※17
天保郷帳・国絵図の村々 (右)
近世 下総国 相馬郡※18
  • 3. 内守谷村
  • 6. 寺畑村
  • 10. 新宿村
  • 11. 筒戸村※19
  • 15. 板戸井
  • 16. 大木村
  • 17. 大山村※20※21
  • 56. 小文間村
  • 75. 豊田村※22
近世 下総国 相馬郡②※18
  • 76. 羽黒村※23
  • 85. 早尾村
  • 86. 羽根野村
  • 87. 上曽根村
  • 88. 下曽根村
  • 89. 下曽根新田村※24
  • 97. 押付新田村
  • 98. 松木村※25
  • 99. 布川村※26
  • 100. 江蔵地新田
  • 101. 布佐村※27
  • 103. 布佐下新田
  • 128. 三河屋新田
  • 129. 相島新田
  • 130. 浅間前新田
  • 131. 大作新田

赤堀川はおよそ7kmの区間をいうが、台地 (洪こう積せき層そう) 開削部は 1kmほどに限られ、前後は軟弱な低湿地 (沖ちゅう積せき層そう) である。開削部の地質は基本的に関東ローム層 (風成) であり、最大6mの掘り下げと考えられている※28。鬼怒川新流路についても全体で7kmほどの区間をいうが、台地開削部は 300~400mほどに限られる※29。小貝川・常陸川新流路も全体で11~12kmほどだが、やはり戸と田だ井い・羽は根ね野の間 300~400m、布ふ川かわ・布ふ佐さ間 200~300mの開削に過ぎない※29。

新川については以下のとおりである。

Fig.088 親野井・金野井付近の地形
Fig.088 親野井・金野井付近の地形
天保郷帳・国絵図の村々
近世 下総国 葛飾郡①※30
  • 59. 槇まき野の地じ村※31
  • 60. 西にし高ごう野や村
  • 62. 新にっ田た戸ど村
  • 63. 中戸村※32
  • 64. 下木津内村※33
  • 65. 上木津内村※33
  • 66. 目め沼ぬま村
  • 67. 屏風村※34
  • 68. 宮前村
  • 69. 鷲巣わしのす村
  • 70. 柏寺村
  • 71. 桐きりケが作さく村※35
  • 72. 古布内村※36
  • 73. 次なみ木き村
  • 74. 親おや野の井い村※37
  • 75. 西親野井村※37
  • 76. 木野川村
  • 77. 深輪村※38
  • 78. 椿村※39
  • 79. 芦よし橋ばし村※40
  • 80. 木崎村※40
近世 下総国 葛飾郡②※30
  • 81. 塚崎村
  • 82. 西にし宝ほう珠しゅ花ばな村※41
  • 83. 東宝珠花村※41
  • 86. 上かみ吉妻きつま村※42
  • 90. 倉常村※43
  • 94. 小平村※44
  • 97. 東金野井ひがしかなのい村※45
  • 98. 西にし金かな野の井い村※45
  • 99. 金崎村※46
  • 102. 大おお衾ぶすま村※47
  • 103. 米こめ崎さき村※48
  • 104. 尾崎村
  • 105. 中里村※49
  • 112. 五木村※50
  • 113. 新しん宿しゅく新田
  • 114. 中野村※51
  • 115. 飯いい沼ぬま村※48
  • 116. 米こめ島じま村※48
  • 119. 赤崎村※48
  • 121. 築つい比ひ地じ村
  • 124. 岩名村※52

この新川も全体で20kmの区間をいうものの、台地開削部は親おや野の井い地点でおよそ 2km、金かな野の井いでおよそ 3kmの延長であり、最大の掘り下げはそれぞれ4m・6mであり、大半が関東ローム層だったとみられる※28※53。

当然ながら、すべてを手作業で行わなければならないなか、低湿地 (沖積層) だから、あるいは距離が短いから簡単だというわけではない。何度も拡幅・浚渫を繰り返さなければなかったから無計画だと論じているわけでもない。うまくいかなかったところを見直し、成功を導き出した過程こそ、また自然地形を巧みに利用することで短距離の開削に留めた知見こそ、讚えられるべきではないだろうか。

i. 利根川水源碑
利根川水源碑
利根川水源碑
ii. 鬼怒沼湿原 (鬼怒川源流)
鬼怒沼湿原 (鬼怒川源流)
鬼怒沼湿原 (鬼怒川源流)
iii. 渡良瀬川水源碑
渡良瀬川水源碑
渡良瀬川水源碑
iv. 皇海山
皇海山
皇海山
i. YAMAPへ投稿されたリポート「荒沢岳(六日町駅~十字峡~丹後山~大水上山~兎岳~荒沢岳~銀山平)」の写真を ちじさんから許可を得て転載
ii. YAMAPへ投稿されたリポート「鬼怒沼山」の写真を マサルさんから許可を得て転載
iii. YAMAPへ投稿されたリポート「庚申山・御岳山・駒掛山・渓雲山・薬師岳・白山・鋸山・皇海山」の写真を ガルナチョさんから許可を得て転載
iv. YAMAPへ投稿されたリポート「北関東遠征1日目 皇海山」の写真を mikan-1093さんから許可を得て転載

上に示したうち、i は大水上山に続く尾根 (分水嶺) に建立された利根川水源碑である。雪渓の残る斜面が水源の谷であり、まさにその雪渓から利根川がはじまっている。なお、画面中央は中ノ岳、その右奥は越後駒ケ岳、左奥は八海山である。大水上山は、尾根を歩いた先にあるため画面外。

ii は鬼怒川源流の鬼怒沼である。鬼怒沼湿原とも呼ばれる高層湿原であり、いくつもの池塘が浮かぶ。

iii は皇海すかい山山頂に立つ渡良瀬川水源碑。iii はその雄大な山容であり、右手の斜面に降り注いだ雨が谷を刻み、やがて集まった流れが渡良瀬川のはじまりとなる。

注釈

鬼怒川曲流部跡

古代 下総・常陸の国界は鬼き怒ぬ川の本流である。ただし 1箇所だけ一致しないところがある。

Fig.68: 9世紀はじめの下総国
Fig.68: 9世紀はじめの下総国
Fig.187: 鬼怒川曲流部跡の地形
Fig.187: 鬼怒川曲流部跡の地形

『続日本紀』の神じん護ご景けい雲うん2年(768) 8月19日の記事に以下のように書かれている※1。

Fig.643 続日本紀 第29巻 明暦3年(1657) 刊本 (部分・国立公文書館所蔵)
Fig.643 続日本紀 第29巻 明暦3年(1657) 刊本 (部分・国立公文書館所蔵)

下総国言もうさく「天平宝字二年に本道の問も民み苦く使し正六位下 藤原朝臣あそん浄じょう弁べん等、具つぶさに毛野川を堀り防ぐべきの状さまを注しるして官に申し、聴ちょう許きょ已すでに訖おわりて其の後已すでに七年を経たり。常陸国の移うつしを得るに曰く『今官符を被りて方まさに川を掘らんと欲す。其の水道を尋ぬるに当まさに神社を決けっすべし。加以しかのみならず、百姓の宅損ずる所少なからず。是ここを以もって状さまを具つぶさにして官に申す。宜しく掘ること莫なかれ』と。者てえれば此これ頻年洪水ありて損決すること日に益す。若もし早く掘り防がずんば、恐らくは渠きょ川せん崩ほう埋まいして一郡の口分二千余田、長く荒廃ならん」と。是ここに於おきて両国に仰せて掘らしむ。下総国結城郡 小塩郷 小島村より常陸国 新治郡 川曲郷 受津村に達する一千余丈。其の両国の郡堺は亦また旧川を以て定と為なし、水に随したがいて移し改むることを得ず

原文: 下総國言、天平寶字二年、本道間民苦使正六位下藤原朝臣淨弁等、具注應掘防毛野川之狀申官、聽許已訖其後已經七年。得常陸國移曰、今被官符方欲掘川。尋其水道當次神社。加以、百姓宅所損不少。是以具狀申官。宜莫掘者此頻年洪水損決日益。若不早掘防、恐渠川崩埋一郡口分二千餘田長爲荒廢。於是仰兩國掘。自下総國結城郡小鹽郷小嶋村達于常陸國新治郡川曲郷受津村一千餘丈、其兩國郡堺亦以舊川爲定不得隨水移改

続日本紀 第6巻

つまり、洪水の被害を軽減するため流路が変更されたが国界は古い流路のままとされた、とされ、これが流路と国界が一致しない箇所にあたる※2。

注釈

縄文海進と内海

およそ 46億年といわれる地球の歴史の中で、現在の我々は新生代の第四紀という時代に生きている。この第四紀とはジュラ紀や白亜紀などでおなじみの「紀」の最後で、(大雑把に) 約250万年前にはじまったとされ、現在より遠いほうから更こう新しん世せいと完かん新しん世せいに分けられる。更新世は以前は「洪こう積せき世せい」と呼ばれ、洪積層 (台地) が形成された時代である。完新世は同様に「沖ちゅう積せき世せい」と呼ばれ、沖積層 (低地) が形成された時代である。完新世は最終氷期、つまり気候が寒冷で氷河が発達した期間 (氷期) のうち、現在にもっとも近い氷期が終了した約1万年前からはじまっている。

その完新世の初期、氷河の融解によって海面は急上昇し、海は内陸に向かって深く入り込んだ。日本ではこれを縄文海進と呼び、ピークは 7300~7000年前とされる※1。海面は現在よりも 2~3メートル高く、また現在の標高でいえばおおむね10メートルまでが海だったと推定され (関東平野の低地部)、高いところでは 20メートル以上だったという (房総半島南端)。これは隆起の影響を受けているためで、差は隆起速度の違いに起因する。

このとき形成された内湾のうち、現在の江戸川・中川・荒川流域に発達したものを奥東京湾、同じく利根川・鬼怒川流域のものを古鬼怒湾 (または奥鬼怒湾) という。奥東京湾はその後の海退にともまってほぼ消滅したが、古鬼怒湾は広大な内海として残って下総・常陸の国界となった。以下は、縄文海進ピーク時の海岸線 (左) と 9世紀はじめの内海 (右) である。どちらも推定で、前者には相関のある貝塚の分布もあわせて示した。

Fig.078: 縄文海進: 7300〜7000年前
Fig.078: 縄文海進: 7300〜7000年前
Fig.207 9世紀はじめの下総国
Fig.207 9世紀はじめの下総国

内海は現存する霞ケ浦 (西浦・北浦) がそうであるように、浅い汽水湖のような環境だったと考えられる (ただし現在の霞ケ浦は淡水湖)。

ところで、その内海はかつてどのような名前で呼ばれていたのだろうか。結論からいえば、残念ながらそれは明らかではない。『常陸風土記』では部分ごとに「信し太だの流海(ながれうみ/りゅうかい)」「榎浦えのうらの流海」「佐礼の流海」「高浜の海」「行なめ方がたの海」「安あ是ぜの湖」と呼ばれている。しかし全体の呼称には言及がない。

Fig.662: 常陸国風土記 (文化12年(1815) 写本・部分・国立公文書館所蔵)
Fig.662: 常陸国風土記 (文化12年(1815) 写本・部分・国立公文書館所蔵)
Fig.663 常陸国風土記 文化12年(1815) 写本 (部分・国立公文書館所蔵)
Fig.663 常陸国風土記 文化12年(1815) 写本 (部分・国立公文書館所蔵)

万葉集では、以下の 3首に関係する地名があらわれる。

「いづくにか 船乗りしけむ 高島の 香取の浦ゆ 漕ぎ出で来くる船」(#1172)

「大おほ船ぶねの 香取の海に いかり下ろし いかなる人か 物思はざらむ」(#2436)

「常陸なる 浪な逆さかの海の 玉たま藻もこそ 引けば絶えすれ あどか絶えせむ」(#3397)

万葉集

しかし、#1172 と #2436は、どちらも近江おうみの琵琶湖西部を詠んだものである※2。つまり、一見すると「香取の浦」や「香取の海」は内海のことを指しているようで、実際には異なる。また、#3397は明らかに内海のことを詠んでいるが、ここでいう「浪逆の海」はその部分名称に過ぎない。

『今昔物語集』には以下のような一節がある※3。

Fig.701 今昔物語 古写本 (部分・国立公文書館所蔵)
Fig.701 今昔物語 古写本 (部分・国立公文書館所蔵)

衣河きぬがはノ尻しりヤカテ海うみノ如ごとシ。鹿嶋かしまは梶取かんどりノ前まえノ渡わたりノ向むかヒ、顔かほ不見ヘみへぬ程ほど也なり。而しかルニ、彼かの忠恒ただつねカ栖すみかハ内海うちうみニ遥はるかニ入いりタル向むかヒニ有あル也なり。然しかレハ、責せめニ寄よルニ、此こノ入海いりうみヲ廻めぐりテ寄よるナラバ、七日なぬか許ばかり可廻めぐるべシ。

*中略*

此こノ海うみニハ浅あさキ道みち、堤つつみノ如ごとクニテ、廣ひろサ一いち丈じょう計ばかりニテ直うるはしク渡わたリアリ。深ふかサ馬むまノ太ふと腹ばらニナン立たツナル。

今昔物語集

あくまでも説話集における描写に過ぎないが、これは平忠常の乱※4が起きたころの情景を鮮やかに描き出している。それほどの描写でありながら、作中での表現は「内海うちうみ」や「入海いりうみ」に留まり、固有の名称はあらわれない。

内海に言及する史料として、もっとも古いのは至徳4年(1387) 『大禰宜大中臣長房譲状』※5かと思われる。しかし、ここでも「うちのうみ」と記されているだけで、特別な呼び方はされていない。

香取神宮と鹿島神宮

香取神宮と鹿島神宮
Fig.206 9世紀はじめの下総国
Fig.206 9世紀はじめの下総国
利根川図志: 津の宮河岸と一の鳥居 (大船津)
Fig.346 安政5年(1858): 利根川図志巻 (国立公文書館所蔵)
Fig.346 安政5年(1858): 利根川図志巻 (国立公文書館所蔵)

下総国一宮の香取神宮と常陸国一宮の鹿島神宮は、古くから深いつながりを持ち、しばしば一対の存在としてとらえられてきた。これは地形をみれば明らかで、2つの神宮はかつての内海の南と北に相対する存在だった。当然海との関係も深く、現在も香取の「津宮浜鳥居」と鹿島の「西の一之鳥居」は、互いに向き合う門ととらえられている。

v. 鹿島神宮 (西の一之鳥居)
鹿島神宮 (西の一之鳥居)
鹿島神宮 (西の一之鳥居)
vi. 鹿島神宮 (大鳥居)
鹿島神宮 (大鳥居)
鹿島神宮 (大鳥居)
vii. 鹿島神宮 (本殿)
鹿島神宮 (本殿)
鹿島神宮 (本殿)
viii. 香取神宮 (津宮鳥居)
香取神宮 (津宮鳥居)
香取神宮 (津宮鳥居)
ix. 香取神宮 (山門)
香取神宮 (山門)
香取神宮 (山門)
x. 香取神宮 (本殿)
香取神宮 (本殿)
香取神宮 (本殿)
v. 『いばらきフォトダウンロード』から取得
vi. ホトカミに投稿された『鹿島神宮のお参りの記録』 の写真を sattさんから許可を得て転載
vii. Omairiの『鹿島神宮の見どころ』 に投稿された写真を aokさんから許可を得て転載
viii. 『道草の人生by草虫』から許可を得て転載
ix. 『ちば観光ナビ フォトダウンロード』から取得 (©Chiba Prefectural Tourism & Local Products Association)
x. 『道草の人生by草虫』から許可を得て転載

常陸国風土記

複数の写本が現存しているが、もとは同じ写本であって、その時点で省略された部分は復原できない※6。本稿で示したのは国立公文書館所蔵・公開のもの (#1240678) である。奥書によれば元禄6年3月4日の日付がある写本を文化12年(1815) 7月に写したもので、『松下見林本』の系統にあたる。群書類従所収のものも含めてNDLDCでも複数の写本が所蔵・公開されている。

注釈

台地と谷津

台地は、平野・盆地において一段高くなっている平坦な土地を指し、基本的に更新世 (洪積世) に形成された洪積層からなっている。谷や津つは、その台地が長い期間にわたって少しずつ侵食されてできた浅い谷状の地形をいう。以下は標高56メートル以下を強調して示した地形図である (標高56メートル以上と0メートル以下の分解能はない)。

Fig.076: 標高59メートル以下を強調した地形図
Fig.076: 標高59メートル以下を強調した地形図

谷津の谷底には平坦な低湿地が形成される。この低湿地は保水性が高い上、湧水によって安定的な水利を得られるため、古くから水田 (谷津田) に利用されてきた※1。また、谷津の傾斜面には同じ理由により樹木が繁茂することから薪炭材を得られ、さらにその上の台地面は草苅場として利用できた。平地における典型的な里山である。

しかし、台地面のうち利用されたのはこのような傾斜面付近に限られ、そこから遠くなるほど不毛の原野と認識された。水利が悪く稲作には不向きだからで、山地・丘陵地から遠く孤立した台地の場合、これが顕著である。こうして生じた空白地が下総・上総国界として漠然と認識された。

谷津・谷戸・谷地

谷津と同一視される言葉に「谷や戸と」と「谷や地ち」がある。筆者の感覚では、谷津は下総のように孤立した標高の低い台地にみられ、谷底がほとんど平坦なものである。これに対して谷戸は、武蔵・相模のような後背に丘陵地・山地を持ち、標高も高い台地にみられ、勾配があってしばしば階段状になるものである。谷地はもっと漠然と窪地も含めた言葉であって、地域的には東北・北海道に多いように思える。もっとも、すべて「谷」の一文字で表現可能で (『谷やつ』『谷やと』『谷やち』)、広くいえば『谷や』の一種である。自然発生的に生まれ、生活・文化に強く結びついてきた言葉である以上、そもそも明確な区別はないのかもしれない。なお、鎌倉における「谷やつ」は丘陵地の地形であり、ここでいう谷津とは異なる。

注釈

更新履歴

内容

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  • 香取神宮と鹿島神宮の記事を追加。

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  • 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。

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  • 『国絵図と国界』の一部として、全面改訂・再構成した。

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  • 同、新規作成。