ここでは、織豊期から江戸初期にかけて発生した下総・武蔵国界 (国境) の変動と、そのまさに変動したエリアである新方について分析しています。
そもそもどこか?
変動の舞台は、古代の利根川 (古隅田川~元荒川) と中世の利根川 (大落古利根川) に挟まれた地域、新方である。現在の埼玉県 春日部市と越谷市にまたがる地域にあたる。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

天保郷帳・国絵図の村々
変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が推定される変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界である。『天保武蔵国絵図』で示せば、以下に示す部分である。

注釈
要因と経過
鎌倉公方・足利成氏と、関東管領・上杉憲忠の不和・対立に端を発した享徳の乱は、関東全域を戦乱に巻き込み、享徳3年(1455) から文明14年(1483) まで 28年間に及んだ。この間に、京都では応仁の乱 (応仁・文明の乱) が勃発し、そして終結している。
この乱では、成氏は本拠地を鎌倉から古河へと移し、古河公方が成立した。古河が選ばれたのは、双方の睨み合う前線として、中世の利根川本流 (利根川・鬼怒川の流路を参照) が機能したためだろう。上杉陣営が伊豆・相模から武蔵・上野へと勢力を広げるのに対し、古河公方は下野・下総の在地勢力(小山氏・宇都宮氏・結城氏など)の支持を基盤に、常陸の佐竹氏や、上野の岩松氏などの支援を受けた。この相対する前線が中世の利根川本流だったということになる。
加えて古河は、利根川・渡良瀬川・思川が集まる低湿地に接し、天然の要害をなしていた。同時にこれらの河川は、常陸川とともに物流の大動脈であって、古河はこれらを束ねる要衝だった。下河辺庄 (直轄地) が重要な経済基盤になり得たことも大きかっただろう。
一方で、これによって中世の利根川本流西岸である新方は、武蔵国との一体性を増していった。そして動乱のなか、岩付 (岩槻) 太田氏の勢力下へ引き込まれたとみられる。大沢宿の地誌 (郷土誌)『大沢猫の爪』※1では「新方」を武蔵国の側から見て「新しい地」の意味としている。さらにその後、新方は伊豆から相模・武蔵へと勢力を拡大する後北条氏 (小田原北条氏) の領国へと組み込まれ、国郡認識も変化していったのだろう。
当町の義、永禄の頃までは下総の地なりしを、元亀・天正の間、岩槻城主・太田十郎氏房の時とも、またその以前、太田右衛門大夫道灌の領内の節とも、西は古利根川、東は元荒川のうちを武州埼玉郡に付属せしゆへ、新しき方というをもって領名とせしなり。新方領元郷は粕壁町なり
当町之義永禄之頃迄𛂞下総の地成しを、元亀・天正之間岩槻城主太田十郎氏房之時共又其以前太田右衛門大夫道灌之領内之節共、西𛂞古利根川東𛂞元荒川の内を武州埼玉郡𛂈付属せしゆへ新しき方と云を以領名とせし也、新方領元郷𛂞粕壁町也
国界の変動を直接的な史料によって確認できるのは江戸期に入ってからある。慶長17年(1612) の『大光寺領検地帳』※2(長宮村) の表紙には「武州新方之庄長宮」とある。『新編武蔵国風土記稿』によれば、同じ慶長17年(1612) に、大竹・大森・新方須賀・大戸・大谷・大口・増長の各村でも検地があったとされる。これらはすべて近世 岩槻領だが、慶長18年(1613) の『大畠村御年貢可納割付』※3の存在から、前提として新方領の大畑村でも検地が行われたことがわかる。ほかの各村も同時期と考えていいだろう。
ただし、後述の葛西と同様に史料上の乱れはあって、関八州 (現在の関東地方) における混乱の典型がここにもあらわれている。
| 年 | 内容 | 史料 |
|---|---|---|
| 慶長17年(1612) | 最勝院の所在地が「武州 | 『関東八州 |
| 天正19年(1591) | 寺院所在地が「武蔵国 | 『平方林西寺 |
| 慶安元年(1648) | 寺院所在地が「武蔵国 | 『大泊 |
| 貞享2年(1685) | 寺院所在地が「武蔵国 | |
| 慶安元年(1648) | 寺院所在地が「武蔵国 | 『大房浄光寺 |
| 貞享2年(1685) | 寺院所在地が「武蔵国 | |
| 寛文4年(1664) | 「下総国 葛飾郡之内 拾五箇村」として 恩間村・大竹村・大道村・三野宮村・大森村・新方須賀村・大戸村・大谷村・大口村・長宮村・増長村・増戸村・増富村・中曽根村・新方袋村が含まれ、下総国のままとなっている。 | 『阿部正春宛領知判物・目録』※8 |
注釈
下河辺庄
下河辺庄は、下総国の葛飾郡から猿島郡にかけて展開された荘園である。このうち北部の台地上を「野方」、低地の河川流域を「河辺」と呼び、これらに対する新しい土地として、中世の利根川より西側の部分が「新方」と呼ばれた※1。
下河辺庄が史料に初めてあらわれるのは、久安2年(1146)『平常胤寄進状写』※2であり、相馬御厨の四至牓示として「西限下川邊境」が示されている。ただし、単なる地名なのか、あるいは荘園の名称なのかはわからない。『吾妻鏡』には、文治2年(1186) 3月12日の記事に引用されている『乃貢未済庄々注文』(同年 2月付) に下総国の荘園として「八条院御領 下河辺庄」が含まれる。

また、文治4年(1188) 6月4日の記事に引用される『権右中弁定長朝臣奉書』(同年 5月12日付) にも、八条院領に「下総国下河辺庄」が含まれる。下河辺庄の成立過程は、はっきりしない。下河辺行平が弟の政義とともに当地を開発し、鳥羽天皇※3か美福門院※4に寄進したことで成立したとみられ、その後、八条院※5に継承された。
八条院領は、建暦元年(1137) 以後、春華門院※6・順徳天皇※7と受け継がれたが、承久の乱 (承久3年,1221) を機に鎌倉幕府に一時没収された後、守貞親王※8に返還され、安嘉門院※9へ継承された。さらに、弘安6年(1283) に安嘉門院が死去すると、亀山天皇※10がその遺領の獲得に成功して大覚寺統の財源根拠となった。嘉元4年(1306)『大覚寺統所領目録』※11には、「庁分」(八条院直轄領) として「下総国千葉庄」とともに「下河辺」が含まれる。八条院領はさらに、後醍醐天皇 (南朝) へ継承された。
一方、『門葉記』に所収の『妙香院庄園目録』※12には八条左大臣家遺領として「下総国下川辺庄」が含まれ、記載の形式から領家職 (下位の領有権) と考えられる。建暦元年(1211) に八条院が死去したとき、その遺志に基づいて所領の一部は九条良輔※13に譲られた。下河辺庄もその中に含まれ、本家職 (上位の領有権) は皇室に留保される一方で、領家職は九条良輔に継承され、さらに妙香院に寄進されたとみられる。同じく『門葉記』に所収の、建武4年/延元2年(1337)『妙香院門跡領并別相伝所領目録写』※14にも、「下総国 下河辺庄」が含まれる。
家譜によれば、下河辺行平の父・行義は小山政光の弟なので、隣接する当地を開発・独立して下河辺氏を名乗るようになったとみられる。鎌倉中期になると、幕府直轄地となって執権・北条氏から派生した金沢氏に支配は移ったと考えられ、さらに一部は称名寺に寄進されてその寺領となった。文永12年(1275)『金沢実時譲状』※15によれば、実時は妻の藤原氏に「下総国下河辺庄前林・河妻両郷并平野村」を一代に限って譲っている。また、永仁2年(1294)『下河辺荘村々実検目録』※16には、前年に行われた実検に基づき「下河辺御庄下方内称名寺〻領村〻」が書き上げられている。なお、建武4年(1337)『妙香院門跡領并別相伝所領目録写』には「地頭請所」とあり、領家の関与は完全に限定されている。
延元元年(1336) 3月22日付『後醍醐天皇綸旨』(模写) によれば「□□国下河辺荘内春日部郷地頭職」(□□国 = 下総国) が春日部氏に与えられた。

また、この人物はその後戦死したとみられ、同年 8月30日の後醍醐天皇綸旨※17によれば、その旧領 (春日部判官重行跡) は「若法師以下」に安堵された。したがって、下河辺庄は南北朝期も荘園として維持された部分があって、南朝の貴重な財源になっていたようだ。とはいえ、その末期までには実態を失い、武家による支配論理に組み込まれて鎌倉府 (鎌倉公方) の直轄地となったと考えられる。
金沢氏・称名寺
金沢氏は北条氏 (執権北条氏) 派生の家系。鎌倉幕府 第3代執権・北条泰時から武蔵国 六浦庄を与えられた北条実泰からはじまるとされるが、実質的にはその子、実時からともされる。称名寺は、この実時が庄内金沢郷に建立した念仏堂が起源といい、同じく実時の創建と伝わる「金沢文庫」が境内にある。
注釈
国絵図における新方
船橋市西図書館所蔵 下総之国図
以下に示すように、船橋市西図書館所蔵 下総之国図に新方は含まれない。
日本六十余州国々切絵図
以下に示すように、日本六十余州国々切絵図の下総国には新方は含まず、武蔵国に含まれる。
下総国 (左) では、日光街道に相当する道筋に北から、「古河」・「中田」・「クリハシ」(栗橋)・「サツテ」(幸手)・「杦戸」(杉戸) があり、さらに南下したころで日光街道は川を渡って、そこに「同𛀘𛁏𛀘べㇸ出」(同かすかべへ出、同 = 武州) とある。一方、武蔵国 (右) では、「同杦戸出」(同杉戸出、同 = 下総) とあるところから日光街道ははじまり、川を越えたすぐに「𛀚𛁏𛀚べ」(かすかべ、粕壁) がある。つまり、下総国に描かれているのは中世の利根川までであって、粕壁を含む新方は下総国には含まれず、武蔵国に含まれている。なお、武蔵国では 2本目の川 (元荒川) を渡るところまでが新方の範囲であって、渡った先には「こし𛀚※」(こしかや、越谷) が存在する。
古河・小山周辺所領史料
小山氏所領目録
『小山氏所領目録』は、小山氏の所領が書き上げられた史料である。日付は記載されていない。『栃木県史 史料編 中世1』(1973)は、これを『小山朝政所領注文案』とし、「承久三年から建治二年までの間に作製されたと推定される」という。しかし『小山市史 史料編 中世』(1980)は、寛喜2年(1230) 2月20日付『小山朝政譲状』と、これに混入した観応元年(1350) 8月20日付『藤原秀親譲状』へ、そのほかの諸史料から得られた情報を組み合わせたものとし、「作成年次は室町時代、十五世紀中葉以降~戦国時代のものと考える」という。
小山高朝伊勢役銭算用状写
『小山高朝伊勢役銭算用状写』※1は、小山領における「伊勢役銭」の負担額を小山高朝が書き上げ、佐八掃部大夫へ送付した目録であり、当時の小山領の全体を網羅している。天正5年(1577) 11月27日付だが、天文5年(1536) の誤りと考えられている。なお、伊勢役銭は伊勢信仰に関係して徴収された費用負担であり、また佐八氏は内宮の神職であり御師である※2。
足利梅千代丸印判状
『足利梅千代丸印判状』※3は、後北条氏 (小田原北条氏) 第3代・北条氏康によって擁立された古河公方・足利義氏 (梅千代丸) が野田氏へ所領を安堵した書状である。本領 (『先御落居之地廿五郷』『重而御落居之地』) のほかに小山氏の所領の一部 (『小山領十一郷』) が含まれている。天文23年(1554) 12月23日付。
古河公方家料所書立案
『古河公方家料所書立案』(以下の左) は、『御料所之書立之案』に含まれる文書※4である。古河公方の御料所 (直轄地) である郷が広域地名ごとに書き上げられており、小山氏に押領された郷も記載されている。永禄4年(1561) 4月15日付。
足利義氏(推定)知行充行状写
『足利義氏(推定)知行充行状写』(右) は、喜連川文書の『御料所之書立之案』に含まれる文書で※5、野田氏に与えられていた志鳥郷を白戸越前守へ一代に限って宛行うとする知行宛行状である。この文書からは、ほかに大野郷・小堤郷・栗山郷・中里郷が野田氏に与えられていたことがわかる。年不詳 12月15日付。天正2年(1574) と推定され、古河公方第5代・足利義氏によるものと考えられている。
小山押領之内野田拘之分書立
『小山押領之内野田拘之分書立』は、『御料所之書立之案』に含まれる文書であり※6、永禄3年(1560) まで古河公方・足利義氏から野田氏に宛行われていたが、その後、小山氏に押領された郷が書き上げられている。『古河公方家料所書立案』の小山氏押領分とは重複しないため※7、直轄または他氏 (野田氏以外) の知行分であると考えられる。年月日不詳、天正3~4年(1575~1576) と推定されている。
御料所方認書
『御料所方認書』は、『御料所之書立之案』と同様に喜連川文書のひとつである※8。天正2年(1574) 12月2日付で、義氏の側近である季竜周興 (芳春院)・松嶺昌寿 (寿首座) の連署があり、宛先は後北条氏第4代・北条氏政である。古河公方の御料所である郷が広域地名ごとに書き上げられているがすべてではなく、直前の関宿城攻撃などで荒廃したか、そのほかの何らかの問題が生じていた各郷であると考えられている。
注釈
データシート
| 変動 | 新方 |
|---|---|
| 要因 | 後北条氏滅亡後における関八州の流動化と国郡認識の混乱 |
| 曖昧化の時期 | 織豊期~江戸初期 |
| 変動の確定時期 | 慶長17年(1612) |
更新履歴
内容
:
- 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。
:
- 『国絵図と国界』の一部として、全面改訂・再構成した。
:
- 同、新規作成。







