ここでは、江戸期 (江戸時代) に全国規模で作成されたと考えられている国絵図の 3番目、正保年間(1644~1648) から慶安年間(1648~1652) にかけて作成された『正保国絵図』について説明しています。
正保国絵図
正保国絵図は、江戸幕府の指示によって全国一律的に作成された国絵図のうち 3番目のものである。正保元年(1644) 12月の作成指示を契機とし、実質的には翌年から作成開始され、おおむね慶安2年(1649)までに完成・提出されたと推定されている。
正保国絵図は、島原・天草の乱の直後という時代背景を反映してか、一連の国絵図の中でも国界 (国境) や峠、沿岸の交通や地形の情報がもっとも詳細に書き込まれており、軍事的な意味合いがもっとも強かった点が特徴である。同時に、記されるべき情報やその内容が事細かに決められたのも特徴のひとつであり、この段階で様式の多くが明確化され、統一された。
一方で、それまで不明瞭に表現されていた国界を確認・是正しようとしたため、かえって境界争いの火種を残すことにもなった。この時点では妥協によって結論は後回しにされても、次の元禄国絵図では未解決のままに残すことが許されず、ここでくすぶっていた火種はのちに燃え上がることになる。
主要諸元
正保国絵図の主要諸元を以下にまとめる。
| 時期 | 正保元年(1644)※1~慶安2年(1649)※2ごろ。 |
|---|---|
| 幕府責任者 | 井上政重・宮城和甫※1。 |
| 分量 | 国絵図 2通・城絵図 1通・郷帳 2冊・道帳 2冊※3。 |
| 確認 | 提出前の内容確認 (事前確認) が行われた。 |
| 縮尺 | 6寸1里 (1/21,600)※3。 |
幕府責任者のうち、主体は井上政重であり、事前確認も基本的には井上が行っていたとみられる。城絵図・道帳については今回に限って提出を求められたものである。城絵図は文字どおりの絵図だが、この場合の「城」は城郭だけではなく、城下までを含んでいる。また道帳は、国絵図に書き入れた道程情報等の目録にあたるものである。
注釈
主要な正保国絵図
正保国絵図は何らかの形で現存するものが多いため、ここでは、規範とみなせるものを主要な正保国絵図として示す。
| 国絵図 | 補足等 | ||
|---|---|---|---|
| 伊勢国 | 『元禄伊勢国絵図』作成の際の写本と推定されている。 | ||
| 信濃国 | 最終段階の下絵図が控えとして残されたものと推定される。 | ||
| 陸奥国 津軽領 | 正本相当の緻密・精密さがある。 | ||
| 出羽国 | 控図。ただし装飾はこの控図に独自のものと考えられる。 | ||
| 越前国 | 明暦の大火後に再提出したものの控図と推定される。 | ||
| 加賀国 | 『元禄加賀国絵図』作成の際の写本と推定される。 | ||
| 能登国 | 『元禄能登国絵図』作成の際の写本と推定される。 | ||
| 越後国 | 『元禄越後国絵図』作成の際の写本と推定される。 | ||
| 因幡国 | 正本相当の緻密・精密さがある。 | ||
| 伯耆国 | 正本相当の緻密・精密さがある。 | ||
| 備中国 | 正本相当の緻密・精密さがある。 | ||
| 日向国 | 控図と思われる。 | ||
| 薩摩国 | 正本として提出する前提で作成された下絵図を控図として残したものと推定される。 | ||
様式と特徴
前述のように、正保国絵図では様式のほとんどが明確化された。また慶長国絵図と同様に、実務レベルでも細かな指示・質疑応答があったらしく、その明確化された様式がさらに補強されている。それらに、前項に示した規範とみなせる国絵図から読み取れる様式を合わせて、以下にまとめる。
様式
| 城下 | 具体的な景観描写は一掃され、記号化で統一されている。形状は方形を基本に、実際の城下の範囲が多角形で示される。元禄国絵図とは異なり、彩色されず地色のままである。ただし、規範とみなせる国絵図のなかでは例外的に『陸奥津軽領絵図』だけは、円形で黄に彩色されている。 | |
|---|---|---|
| 村 | 郡別に彩色された小判形で、村名・村高とも中に記載する形式に統一された。その村高は斗以下が省略 (切り捨て) され、「~石余」と表記される。また、一国支配でないかぎりは支配別を示す「いろは」記号が付記される。 | |
| 宿駅 | 一般の村のオブジェクトとの区別有無、および区別される場合の形式も統一されていない。 | |
| 郡 | 見出し | 枠無しで郡名の右 (右肩) に郡高が記される形式に統一された。 |
| 境界 | 墨線で統一された。 | |
| 街道 | 朱線による表現、および線の太さによる主・副 (本・脇) の区別がなされ、一里塚 (黒丸 2つ) で距離を示す方式に統一された。また、明示された様式に道程情報 (距離情報) が含まれ、記載されるようになった。しかし、脇道における一里塚の有無や、道程情報の内容・記載位置までは統一されていない。 | |
| 航路 | 街道と同じように朱線で示される方式で統一された。距離についての情報が付記され、沿岸には港や地形についての事細かな情報も記載されている。 | |
| 国界 | 国境 | 記載されているが、表現はまちまち。また、街道が通る場所に限定されることが多く、次の元禄国絵図より数は少ない。ただし、難所や冬期についての情報は正保国絵図に独自のものであり、元禄国絵図では省かれている。 |
| 隣国 | 統一的に彩色されている。 | |
| 方角 | 統一的に記載されている。 | |
| 川幅 | 川幅または橋の長さと渡河方法 (舟か徒歩か) が記載されている。橋・徒歩の場合は省略されている場合がある。 | |
| 目録 | 記載されている。しかし、表題を含めて形式は統一されていない。 | |
国界に対する配慮
正保国絵図では、国界 (国境) について「前回の国々の絵図には互いに異なるところがあるので、念を入れて最初の下絵図で国相互に確認し合い、是正した上で今回の絵図にすること」※5※6とあり、相互確認が求められた。しかし、自主的な行動が促されているなど徹底されたものではなかったほか、未解決のままにすることも容認されていた。たとえば、大和国絵図 (ライデン大学図書館所蔵) では「畑江ノ内 葛尾」(天保国絵図の北葛尾村) 付近に「論所」の記載があり、係争地の存在が認められている。ここは現在でも三重・奈良県境が不自然に奈良県側へ突出し、三重県が奈良県に食い込んでいる部分である。争論が解決してそれが確定することでさえ、次の元禄国絵図を待たなければならなかった。
事前確認
正保国絵図では、井上政重による事前確認が行われた。この事前確認は、次の元禄国絵図とは異なり通達類に明示されていなかったが、事実上、井上の了承を得られなければ最終的な提出物として認められなかった。おそらくその過程で様式はさらに詳細化され、それが他国へも反映されたことは容易に想像できる。初期の確認では、部分的な手直しでは修正できず、実質的には作り直しになった指摘もあったようだ。その結果、正保国絵図には多くの下絵図 (下図) がバリエーションとして残ることになった。
一国単位の原則
正保国絵図では一国単位の原則にも厳密だった。広島藩の記録によれば、藩は当初、安芸国・備後国一体で国絵図を作成したようで、事前確認では「安芸国・備後国一国絵図きりニ」との指摘を受けて、作成し直すことになってしまった (ただし指摘はほかにも多岐に渡り、これだけが要因ではない)※7。
一国単位とは直接関係するものではないが、萩藩が担当した周防国・長門国では、支藩の扱いについて藩からは再三の申し入れにもかかわらず、井上政重は原則どおりにするようにと最後まで譲ることがなかった※8。井上のこの頑固なまでの生真面目さはほかでも散見され、一国単位の原則も貫徹されたものと考えられる。
上に示したうち、左 (左上) が『正保伊勢国絵図』であり、残りが順に『元禄伊勢国絵図』および『天保伊勢国絵図』である。正保国絵図の形状と方角は、元禄・天保で見直されているのがわかる。
上に示したうち、左 (左上) が『正保備中国絵図』であり、残りが順に『元禄備中国絵図』および『天保備中国絵図』である。備中国についても、正保国絵図の形状と方角は、元禄・天保で見直されているのがわかる。
上に示したうち、左 (左上) が『正保薩摩国絵図』であり、残りが順に『元禄薩摩国絵図』および『天保薩摩国絵図』である。薩摩藩は、天保国絵図作成にあたって元禄国絵図をほとんど見直すことなく、そのまま提出したことで知られている。しかし上に示したものからもわかるように、元禄国絵図作成では正保国絵図をきちんと見直して提出した。
注釈
正保国絵図の写本
正保国絵図の写本がどのような性質のものかは区別が難しい。これは、事前確認による作り直しで複数の下絵図が生じた一方で、それらのひとつひとつに細かな来歴が記載されていないことが主な理由だが、さらに明暦の大火も混乱に拍車をかけている。
江戸では何度か大火事が発生し、そのたびに街の大部分が焼き尽くされるような甚大な被害を受けた。そのうち明暦3年(1657) 1月に発生した「明暦の大火」では、江戸城にまで延焼が及び、このとき正保国絵図はすべて失われたと考えられている。その後、国絵図を取りまとめた各藩は、幕府からの求めに応じて国許の控図から国絵図を再作成・再提出したとみられ、このとき必要に応じて現状反映も行われた。つまり、これによって正保国絵図にはさらにバリエーションが生まれてしまったわけである。
なお、佐賀藩の記録※1によれば、その後の幕府がこれを認識していたかどうかは怪しい。享保10年(1725) 佐賀藩は国許の控図を火事で失ったため、幕府に願い出て「正保二年差上候」である「肥前一國之繪圖二枚 (肥前一国之絵図二枚)」を借用し、その写しを作成した。しかし、借用したその絵図は本来の正保国絵図ではなく※2、藩でさらに調査した結果、明暦の大火による経緯がようやくわかった。つまり、貸し出した幕府も、それが再提出されたものとは認識していなかった、というわけである。
上に示したのは、どちらも『正保阿波国絵図』であり、石高も一致するが、その内訳は左の中川忠英旧蔵では再編前の 13郡構成、右のライデン大学図書館所蔵では再編後の 10郡構成に変更されている。
注釈
更新履歴
内容
:
- 追補の上で『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。
:
- 『国絵図と国界』の一部として新規作成。











