ここでは、江戸期の争論をきっかけに変更された相模・伊豆国界 (国境) と、そのまさに変動したエリアである伊豆山権現領について分析しています。
そもそもどこか?
伊豆山根現は、静岡県 熱海市に所在する現在の伊豆山神社の近世における呼び名である。走湯山権現とも呼ばれた。変動の舞台はその寺領である伊豆山権現領であり、地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

天保郷帳・国絵図の村々
変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界 (現在の神奈川・静岡県境) である。『天保伊豆国絵図』で示せば、以下に示す部分である。
注釈
要因と経過
きっかけは、伊豆山権現と小田原藩・土肥住民の対立から発生した争論 (境論) である。土肥は現在の神奈川県 湯河原町の市街地にあたる。
双方の主張
伊豆山権現が主張する相模・伊豆国界は、門川 (現在の千歳川) およびその延長の谷筋であるのに対して、小田原藩・土肥住民が主張する国界は、その南にある山塊の稜線だった。要するに、変動後の国界が伊豆山権現が主張する国界であり、変動前の国界が小田原藩・土肥住民が主張する国界である。ここから明らかなように、最終的に伊豆山権現の主張が通って、元禄13年(1700) 相模・伊豆の国界は変更されることになった。
伊豆山権現が山全体を神域 (境内) とし、門川 (千歳川)・谷筋を境界ととらえるのは正論といえる。しかし『正保改定図』では、相模・伊豆の国界は稜線で表現され、千歳川に相当する川筋と稲村は相模国内に描かれている。『寛永伊豆国絵図』 でも国界は稜線であって、「権現領」から国外へのびる道に「此境ゟ相模国稲村近所迄道法壱里九丁五拾七間」とも記され、稲村ははっきりと国界の向こう側に存在している。つまり実際には小田原藩・土肥住民の主張が正しい。以下は『正保改定図』『元禄改定図』の対比 (左)、および『寛永伊豆国絵図』(右) である。
地形的な観点からも、千歳川の両岸でひとつの領域が構成され、稜線が境界として認識されるのは自然といえる。一方で、谷筋から平地部 (現在の湯河原町 市街地) に出た千歳川は偏って流れるため、その南岸で利用可能な土地は限られたものだったことは容易に想像できる。
経緯と経過
元禄14年(1701) 12月『伊豆山権現領百姓返答書写』※1によれば、この対立は万治年間(1658~1661) からあった。以下に抜粋する。
小田原藩の役人と土肥の百姓 (と伊豆山権現) の三者が立ち会い、神文 (起請文) をもって伊豆山四至牓示の御絵図を仰せ付けられた。その際、小田原藩の役人と土肥の百姓は鳴沢石引道 (小田原藩・土肥住民の主張する境界) までが相模国であるとして、付箋をその絵図に貼った上で提出したが、評定所では『御朱印御文言』と違っていることから、その付箋は取り払われ、また国界に立つことはなかった
小田原御役人幷土肥百姓三方立合、神文を以伊豆山四至牓示之御絵図被為仰付候、其節小田原御役人幷土肥百姓鳴沢石引道を限り相模分にいたし、右御絵図ニ張紙仕差上候得共、於御評定所ニ御朱印御文言ニ相背き申由ニ而、右之張紙御取捨被為遊、両御国境ニ御立不被遊候
上記によれば、万治年間(1658~1661) の対立では『御朱印御文言』を根拠に小田原藩・土肥住民の主張は評定所で否定され、そのまま現地調査は実施されないまま裁許されたという。そして元禄年間(1688~1704) の対立はこのような前提のもとにはじまった。端緒は、元禄11年(1698) 土肥住民が権現領から石を切り出したことにあり、伊豆山権現領の住民がこれに抗議したことから再び争論に発展した※2。
国絵図に描かれているように、伊豆山権現が主張する範囲内にはすでに稲村が存在していた。内陸の一帯も入会地として利用され、あるいは小集落も形成されていたとみられる。伊豆山権現 (伊豆山村) がこれを黙認していたのか、それとも小競り合い程度は日常的にあったのかはわからないものの、どちらにせよ、神域の一部が具体的に切り出されるという事態にいたって我慢の限界を超えた、といったところだろう。
裁許状※3によれば、万治年間(1658~1661) の裁許絵図と、伊豆山権現が提出した「御朱印載せらる権現領縁起の写四至牓示の図」が現地で照査された結果、国界については伊豆山権現の主張が認められた。つまりこのときの裁許も万治年間(1658~1661) を踏襲するものになった。
一方で、すでに形成されていた塩坪・寺坂・和泉の 3集落の存在することと、これからが相模国かつ小田原領であることも認められた。いわば折衷案であって、両者の主張を取り入れつつ現実的な解決策が模索された結果といえるが、これによって伊豆国内に相模国の飛地が存在することになった。以下は元禄13年(1700) の裁許絵図である。
以下は『天保伊豆国絵図』(左) と『天保相模国絵図』(右)で、前者 (伊豆国) には、小判形の外に「相模国」と付記された、「宮上村之内」の「塩坪」「寺坂」「和泉」の 3集落と「稲村」が存在する一方、後者 (相模国) では川筋が国界として描かれ、これらの村落は描かれていない。
なお、常陸国内にも下総国の飛地があったが、これは『天保下総国絵図』に描かれ、「飛地」と明記されている (『長崎村ほか: 下総・常陸国界』を参照)。注釈
小田原藩から見た国界の変更
この国界変更の経緯について、『湯河原町史 第湯河原町史 第3巻 通史編』(1987)※1は以下のように評価している。
小田原藩の全くあずかり知らない、伊豆山と熱海村との境界争いで、いつの間にか」万治年間(1658~1661) の議論が行われ、元禄13年(1700) の裁許の決定的な論拠が形成されてしまい、その驚くべき事実が、40年後に持出されたのである。『御朱印』という覆すことのできない権威の前に、幕府の老中・寺社奉行・町奉行・勘定奉行も色を失ったことであろう。
しかし、実際には万治年間(1658~1661) も小田原藩の役人と土肥の住民は立ち会っているので「全くあずかり知らない」とはいうのはおかしい。小田原藩は貞享3年(1686) に稲葉氏から大久保氏に継承された。本当に元禄年間(1688~1704) の時点で小田原藩が把握していなかったのであれば、それは内部の引き継ぎに問題があったのであって、伊豆山権現からすれば言い掛かりである。
また、基本的に大名 (1万石以上) は御朱印・朱印状で領知される上、10万石以上となれば御判 (花押)・判物となって※2「御朱印」より格が上である。元禄13年(1700) 時点で大久保氏の小田原藩は 11.3万石であり、大名と寺社を単純に比較することもできないが、少なくとも小田原藩から見た伊豆山権現は、「『御朱印』という覆すことのできない権威」ではない。またそういった事情も含めて、寺社奉行・町奉行・勘定奉行と老中 1名以上による評定所に持ち込まれ、合議の上で裁許された。単純に、伊豆山権現は「御朱印載せらる権現領縁起の写四至牓示の図」を論拠として示せたが、小田原藩はそれができなかった、というだけだろう。
注釈
元禄国絵図との関係
元禄国絵図では、隣国相互の確認が義務づけられ、国界を巡る未決着の争論は許容されなかった。時期が重なることから、本件もこれにともなって争論にまで発展したものと考えられる。おそらく日常的な小競り合いはあっても妥協的に解決されてきたものが、境界を明確化するとなれば伊豆山権現も黙認できず、土肥住民 (小田原藩) も先鋭的な行動に出たのだろう。
データシート
| 変動 | 伊豆山権現領 (北側) |
|---|---|
| 要因 | 江戸期の争論 (境論) |
| 変動の確定時期 | 元禄13年(1700) |
更新履歴
内容
:
- 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。
:
- 『国絵図と国界』の一部として修正。
:
- 同、追補。
:
- 同、新規作成。






