ここでは、織豊期から江戸初期にかけて発生した常陸・下総国界 (国境) の変動と、その変動したエリアについて分析しています。
そもそもどこか?
変動の舞台は、現在の茨城県 下妻市の中南部であり、地形的には市街地がのる台地と低地 (氾濫原) の境界にあたる。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。
天保郷帳・国絵図の村々
近世 下総国 豊田郡※1
- 11. 粟野村
- 13. 仁江戸村
- 14. 行田村※2
- 15. 松岡村※3※4※2
- 16. 中居指村
- 17. 今泉村※5
- 18. 下栗村
- 19. 田下村※6
- 20. 本宗道村
- 21. 新宗道村※7
- 22. 見田村※8※9
- 23. 唐崎村※8※9
- 24. 伊古立村※8※9
- 25. 長萱村※8※9
- 26. 新堀村
- 27. 小島村※10
- 28. 古沢村※11
- 29. 谷田部村
- 30. 袋畑村
- 31. 加養村
- 32. 山尻村※12
- 33. 柳原村※13
- 34. 肘谷村
- 35. 樋橋村※14
- 36. 大園木村
- 37. 鯨村
- 38. 館方村※15
- 39. 渋田村
- 40. 羽子村
- 41. 原村
- 42. 若宮戸村
- 43. 小保川村
- 44. 本石下村
- 45. 上石下村※18
- 46. 中石下村※18
- 47. 本石下・中石下・
上石下 村新田※16※17※18 - 48. 蓮柄沼新田※16
- 49. 妙見沼新田※16
- 50. 原宿村※19
- 51. 本豊田村※20
- 52. 豊田村※20
- 53. 新石下村※21
- 54. 大房村※22
- 55. 東野原村※22
- 56. 平内村※22
- 57. 曲田村
- 58. 福田村※23※24
- 59. 福崎村※23※24
- 60. 山口村※22
- 61. 収納谷村※22
- 62. 三坂村
変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が推定される変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界である。『天保下総国絵図』で示せば、以下の部分である。

注釈
要因と経過
当地における国界の変動は、高椅地域と背景・経過が類似しており、特に変動の前提となる曖昧化の時期や要因はほとんど共通する (高椅地域についての詳細は『高椅: 下総・下野国界 (国境) の変遷』を参照)。つまり、戦国・織豊期に国界をまたぐ領域が形成され、これによって国郡認識が曖昧化した上に、関ケ原の合戦後にその当事者が不在となったことが変動の要因である。
前史から概観すれば、当地には平安末期までに下妻庄が成立した。史料上の初出は『吉記』承安4年(1174) 3月14日の記事※1であり、同記事には「常陸国下津真庄」の下司である人物の乱行を、隣接する「下総国松岡庄」(豊田庄)※2が訴えていること (『同領下総国松岡庄訴申常陸国下津真庄下司広幹乱行』) が記されている。
変動エリアに含まれる各村のうち、小島・古沢・山尻の3村は、下妻庄に含まれていたことが史料から確認できる。永享7年(1435) の『常陸国富有仁等注文写』※3によれば、「下妻庄内」に「古沢郷」「山尻郷」が含まれ、応永2年(1395) の『鎌倉公方足利氏満所領宛行状』※4によれば「常陸国下妻庄内」に「小島郷半分」が含まれている。小島郷については、応永24年(1417)『関東管領上杉憲基施行状』※5にも「常陸国下妻庄内小島郷」とある。
しかし、戦国期に入ると北方の関城を根拠とする多賀谷氏が南下して勢力を拡大させた。その結果、同氏の領域は常陸国の下妻庄ばかりでなく、下総国の松岡庄 (豊田庄) にまで及び、本来は国界を挟んでいたこれらの地域が一体化することとなった。これが国界を曖昧化させ、のちに国界を変動させた要因である。広域的な地図 (国絵図) が存在しない中世の宛行・安堵は、一般に遺領・旧領 (闕所) を単位として行われた。いまだその延長に過ぎない江戸初期においても同じであり、高椅地域の結城領と同様に、多賀谷領が成立した時点でかつての境界は意味を失ったといえる。また、これに拍車をかけた事情については、結城領と連動している。
多賀谷氏は、もともと結城氏の家臣であり、豊臣秀吉からも同氏への服属を命じられていた。しかし、争乱のなかで佐竹氏とも関係を持たざるを得ず、佐竹義宣の弟である宣家を養子として迎えていた。この結果、結城秀康との関係を保とうとする三経と、佐竹氏との関係を保とうとするその父・重経との間で内部分裂を起こし、両者の行動は完全に分かれた。
関ケ原の合戦後、結城秀康は大幅な加増の上、越前国 北庄へ転封となった。これに対し、態度をはっきりさせなかった佐竹義宣は、出羽国 久保田への移封によって過酷な減封処分を受けた。そのため、三経は結城秀康に従って越前へ移り相応の所領を得られた一方、重経・宣家は所領を没収された。こうして多賀谷領もまた、結城領と同じように当事者のいない空白域となってしまったのである。
その後の多賀谷領は、幕府直轄地となって代官・伊奈忠次の支配下に入ったとみられるが、当地の江戸前期に関しては、まったくわからないといえるほど一次史料が残っていない。しかし、あるいはこの空白こそが、当地の曖昧化を象徴しているのかもしれない。
上に示したのは、船橋市西図書館所蔵の『下総之国図』、『下総一国之図』、および『寛文下総国絵図』である。『下総之国図』と『下総一国之図』では鬼怒川より東の部分がまったく描かれておらず、変動エリアを含む下総国 豊田郡の大部分が完全に欠けている。また『寛文下総国絵図』では、鬼怒川に沿った各村は描かれているものの、本来あるべき小貝川は鬼怒川との合流部しか描かれておらず、豊田郡の領域は完全ではない。さらに、本来は常陸国であるはずの下妻 (城廻村 ・当郷村など) や長塚村までここに含まれている。
これらからは、多賀谷領を含む地域一帯の境界認識が、この時点で相当曖昧になっていたことがわかる。豊田郡は大部分が鬼怒川と小貝川に挟まれた氾濫原であり、その多くは未開発の低湿地のままだった。開発が進むのは江戸期に入ってからであり、治水と検地の進行にともなって境界は整理され、近世の豊田郡が成立していったと考えられる。
変動エリアの国界が定まり、本来の北にあった国界が南へ移された時期を明確に示す史料はない。しかし、正保下総国絵図 (推定) に豊田郡が存在すること、および前述の治水の進捗からいえば、高椅地域と同様、寛永年間(1624~1644) と考えるのが妥当といえるだろう。
注釈
鬼怒川東流部
鬼怒川は、栃木県の山間部から同県内を還流し、茨城県の南西部を流れて利根川に合流する河川で、長さ・流域面積ともその最大の支流である。下流ではより東を流れる小貝川とともに南流し、茨城県の下妻市南部と常総市では、同じ氾濫原を共有して並流する。
この並流区間において、古代の鬼怒川は北部で分流して東西どちらの流路も流れ、南部で再び合流していた。また、古代は東の流路が本流であり、小貝川単独の流路とみなせるようになるのは、本流が西へ移った以後のことである。なお、南部で合流してから利根川までの区間は、引き続き鬼怒川の本流だった。この部分が小貝川単独の流路となるのは、江戸期に人工的な新流路が開削され、鬼怒川と小貝川が完全に分離された以降である (新流路の開削については『下総国を形成した地理』を参照)。
このうち、北部で東西の流路が分流していた付近に着目すると、それがまさに変動エリアにあたる。以下 (左) は、変動エリアの治水地形分類図である※1。
南北に並ぶ、のたうつような流路の痕跡が、古代の鬼怒川本流と推定される流路跡である。このうち、一見してわかるように南の流路跡のほうが幅が広く、かつ自然堤防を大規模に発達させていることから、これが古代の鬼怒川本流とわかる。これに対して北の流路は細く、相対的に自然堤防の規模も小さい。しかし、江戸期以降も糸操川の一部として残ったのは北の流路であることから、本流が南流するようになったあとも残った分流の跡とわかる。ただし、沖積平野における河川の特性からいえば、新旧どちらの流路も一定期間は併存し、東西流路の変化とも連動しながら、緩やかに交代していったと考えるのが妥当だろう。
いずれにせよ、この時点で流路跡は境界としての意味をなさなくなっていた。さらに江戸初期に当地の開発が進むと、そのまま検地の過程で下総国から続く田園地帯 (谷原三万石) と一体化していった、というのがおおまかながら実際のところと思われる。
注釈
データシート
| 変動 | 下妻 |
|---|---|
| 要因 | 徳川政権による再編成 |
| 曖昧化の時期 | 織豊期~江戸初期 |
| 変動の確定時期 | 寛永年間(1624~1644) |
更新履歴
内容
:
- 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。
:
- 『国絵図と国界』の一部として、新規作成。






