ここでは、織豊期と江戸初期に発生した尾張・美濃国界 (国境) の変動と、近代に再編された尾張・美濃・伊勢国界について分析しています。

そもそもどこか? (織豊期)

変動の舞台は、ぐり・中島・かい西さい 3郡であり、本来はわりぐり・中島・海西 3郡のそれぞれ一部だった。現在の岐阜県 各務原かかみがはら市の南部・なん町・笠松町・岐阜市の一部 (柳津やないづ)・羽島市・かい市の南部 (旧海津町の大部分と旧平田町の一部)・愛知県 あい西さい市の南西部 (旧たつ村の大部分) である。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

Fig.098 羽栗(葉栗)・中島・海西 (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
Fig.098 羽栗(葉栗)・中島・海西 (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
上流
Fig.125 木曽川・伊勢湾 (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
Fig.125 木曽川・伊勢湾 (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
上中流
Fig.124 上中流 (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
Fig.124 上中流 (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
中下流
Fig.126 中下流 (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
Fig.126 中下流 (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
下流
Fig.137 下流 (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
Fig.137 下流 (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
河口デルタ
Fig.127 河口デルタ (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
Fig.127 河口デルタ (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
天保郷帳・国絵図の村々
近世 美濃国 羽栗郡※1
近世 尾張国 葉栗郡※60
近世 美濃国 中島郡
近世 尾張国 中島郡※60
近世 美濃国 海西郡※152
近世 尾張国 海西郡※60
近世 伊勢国 桑名郡※213※214
近世 美濃国 安八郡※249
近世 美濃国 石津郡※264

変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が推定される変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界である。『天保尾張国絵図』『天保美濃国絵図』で示せば、以下の部分である。

天保美濃国絵図
Fig.650 天保美濃国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.650 天保美濃国絵図 (国立公文書館所蔵)
天保尾張国絵図
Fig.651 天保尾張国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.651 天保尾張国絵図 (国立公文書館所蔵)
注釈

要因と経過 (織豊期)

この国界 (国境) の変動は、郡が名称はそのままに分割・分離されたこと、大河川の流路が関係していること、そしてその範囲が広大であることにおいて、関東平野における下総国 かつしか郡の事例ときわめて似ている。

関東平野では下総国 葛飾郡の西部が分割・分離され、武蔵国 葛飾郡となった。これに対し、濃尾平野では尾張国 羽栗・中島・海西 3郡の東部が分割・分離され、美濃国 葉栗・中島・海西の 3郡となった。その境界に影響を与えたのは、関東平野では利根川の本流であり、濃尾平野では木曽川の本流である。そして縁辺とはいえ、利根川では河口から古河付近にいたるまで、木曽川では犬山付近にいたるまで、広域にわたる国界が変更された。

国界が変動した要因については、すでに江戸期から議論が多い。まきながの戦いの和解としてのぶかつから秀吉に差し出された、あるいは木曽川を家康に対する防衛線とするために秀吉が信雄に割譲させた、などとあって、時期もてんしょう12年(1584) から天正18年(1590) まで幅が大きい※1。実際にはほかの地域と同様、豊臣政権による安堵・検地によってその時点の境界認識が反映・固定されただけ、と考えるのが妥当だろう。また時期は、天正17~18年(1589~1590) に限定される。

i. 犬山城
i. 犬山城
i. 犬山城
ii. 小牧城 (模擬天守)
ii. 小牧城 (模擬天守)
ii. 小牧城 (模擬天守)

天正17年(1589) の秋、美濃国では総検地が行われた※2。この総検地を踏まえた天正17年(1589) 11月21日付の宛行状※3※4では「於濃州領知方五千石」が伊木忠次に与えられ、目録には近世 羽栗郡・中島郡となる「北およひ、北舟はら、南舟はら、あさひら、本郷村、竹かはな、ましま、小熊 (三上方・ゑかしら共)、なかいけ、北しゆく、南しゆく (いしき共)」が含まれている。つまりここで、尾張国 葉栗郡・中島郡から近世 美濃国 羽栗郡・中島郡が分割され、成立したことがわかる。

一方、この時点では総検地が海西郡にまで及んだとは考えられない。小牧・長久手の戦いの当時、信雄は長島城を本拠としており、羽栗郡・中島郡とは異なり、海西郡だけは秀吉の侵食を許さなかった (そこまで追いつめられた、ともいえる)。その後も、検地や知行編成を含めて独自の領国経営を継続し※5、天正14年(1586) 7月23日付の宛行状※6では「大屋ぶの郷、野寺・はたをさ両郷、下はたをさ郷、岡村郷、須脇郷、野市場郷、横江(但里無之)、松木郷、かのゝ郷、上切郷、なるとの郷」を吉村又三郎にあらためて与えている。この吉村又三郎は信雄に従って戦った人物であり、戦前の天正10年(1582) 12月や天正11年(1583) 1月にも宛行状※7※8を受けていた。

この状況が変わるのは天正18年(1590) を迎えてからである。この年の 7月、小田原城の陥落と後北条氏 (小田原北条氏) の滅亡を受け、秀吉は家康に関東 (相模さがみ武蔵むさし上総かずさの全域と下総しもうさの大部分、上野こうずけの南半分、下野しもつけの一部) を与えた。そしてその旧領 (かわ遠江とおとうみ駿河するが、および信濃しなのの南部) を信雄に与えたが、信雄は大幅な加増だったにもかかわらず、旧領 (尾張・北伊勢) にこだわったために秀吉の怒りにふれ、改易されてしまった。これを受け、天正18年(1590) 8月末から 9月にかけて尾張国では大規模な知行再編成が行われた※9。したがって、このときに合わせて実施された検地によって※10、尾張国 海西郡から近世 美濃国 海西郡は分割され、成立したといえる。

前史と羽栗郡・中島郡

天正10年(1582) 6月2日未明、遠征に向けて本能寺に宿泊していた織田信長を明智光秀が急襲した。信長は寺に火を放って自害し、すでに家督を譲られていた長男・のぶただも二条御所 (二条新御所) で自害に追い込まれた (本能寺の変)。羽柴秀吉はこの知らせを受けると、ただちに備中びっちゅう高松城から京へ駆け戻って光秀を破り (山崎の戦い)、これによって発言力を強める。同月27日に行われた柴田勝家・ながひで・池田つねおきとの協議 (きよ会議) では、信忠の子・ひでのぶ (三法師) が後継者に選ばれたが、これも秀吉が推したためといわれる。一方で、信長の次男・のぶかつ(北畠信雄) は尾張国を、三男・のぶたか(神戸信孝) は美濃国を、それぞれの領国に加えたものの、どちらも後継者争いから排除され、秀吉への不満を強めていく。もっとも、この二人もまた反目する関係にあった。

信孝は秀吉と対立する柴田勝家・滝川かずますを味方に引き入れたが、秀吉は信雄と協調し、これに丹羽長秀・池田恒興も加わった。最終的にしずたけの戦いで柴田勝家が敗れたのを受け、天正11年(1583) 5月までに信孝は自害する。その後、再び秀吉と対立を深めた信雄も、天正12年(1584) 3月に徳川家康と結んで秀吉に反旗を翻したが (まきながの戦い)、同年 11月には事実上降服 (名目上は和睦) を余儀なくされる。結果として南を失い、尾張も侵食されることになってしまった。

この一連の出来事を背景に羽栗郡・中島郡の状況を見ると、まず羽栗郡の主要部分は、早くから美濃国とみなされていた可能性が高い。ふせを本拠とする伏屋市兵衛は、信忠から天正9年(1581) 2月10日付の宛行状※11を発給され、その死後 (本能寺の変後) は、まず信雄から天正10年(1582) 8月9日付の安堵状※12を受けた。しかしこれは、信孝から同年11月付の宛行状※13が発給されたことによって否定されている。さらに 12月には「下印食 專光坊」に信孝の禁制※14が発布された。これらから、小牧・長久手の戦い以前から周辺は信孝の支配であり、美濃国とみなされていたことがわかる。『織田信雄分限帳』でも、近世 尾張国 葉栗郡の村々に対応する郷村は含まれていても、近世 美濃国 羽栗郡の村々に対応する郷村は見当たらない。つまり戦いで失った郷村としても羽栗郡の村々は存在しない。

羽栗郡から中島郡にかけては、信雄の城 (中島郡) とたけはな城 (葉栗郡) が小牧・長久手の戦いで落城し、秀吉に奪われた。天正12年(1584) 6月21日付の宛行状※15では、毛利広盛 (掃部助) が秀吉から「石田、東方、野条、大藪、八上桑原」(本知分) と、「奥村、城屋敷、加賀野井、中野」(新知分)」を与えられている。また、天正13(1585) 11月3日付の判物※16では、伊木忠次 (清兵衛) に「不破源六分、竹鼻近辺所々」が与えられた。つまり、この一帯の境界認識は小牧・長久手の戦いで変動したようである。ただし、天正12年(1584) と推定される、家康の家臣・本多忠勝が芦田時直 (弥平兵衛) に送った 5月16日付の書状※17には「濃州境目おうら、三柳」とあって、本来よりも尾張国に寄った大浦村・三柳村付近が国界とみなされている。

注釈

織田信雄分限帳

織田信雄分限帳は、織田信雄の家臣および寺社領等の知行形態を貫高表示で書き上げたもので、天正12年(1584) 9月以降、天正12年(1586) 14年7月以前の状況を示している。小牧・長久手の戦い直前の知行地と、多くの場合にそれに「相違」、つまり変更があることを付記した上で、戦後の知行地を「当知」として併記している点が大きな特徴となっている。複数の伝本を校合して注釈を加えたものが『新編一宮市史 資料編 補遺2』(1980) に収録され※1、担当した新井による『「織田信雄分限帳」諸本の系統について』が『信濃 第32巻 第12号 (通巻372)』(1980) に収録されている。

Fig.735 織田信雄分限帳 (部分・筑波大学デジタルコレクション公開)
Fig.735 織田信雄分限帳 (部分・筑波大学デジタルコレクション公開)
注釈

木曽川と尾張・美濃国界

天正十四年六月二十四日の木曽川洪水

この尾張・美濃国界 (国境) の変動については、小牧・長久手の戦い以外に、「天正十四年六月二十四日の木曽川洪水」に理由を求める説明も多い。しかし、これに関しては一次史料によって確認できないのは当然とこととして、江戸期の主要な地誌や史料でも洪水と国界を直接関連づけた言及は存在しない。たとえば『尾濃葉栗見聞集』では、〈天正以来木曽川洪水之事〉の項目に「天正十四年丙戌都市美濃、尾張洪水にて葉栗・中島両郡の内の村里崩流て今の木曽川筋出来して」とあるが、これを理由に国界が変わったとは述べられていない。国界については、これとは別に〈尾張洪水木曽川通堤之事〉の項目に「葉栗、中島、海西の三郡濃州に属す其初を尋ぬるに、太閤秀吉公、織田信雄卿御和睦の時、齋藤義龍の闕所を以て秀吉公に被進、羽栗、中島、海西の三郡割而豊臣領と成」とあって、小牧・長久手の戦いに理由を求めている※1。『美濃明細記』『新撰美濃志』『濃州徇行記』といったほかの代表的な地誌では、そもそも「天正十四年」の洪水に対する明確な言及がなく、当然国界の変動理由をこれに求めてはいない。なお、『尾濃葉栗見聞集』にも「六月二十四日」という具体的な日付は記されていない。

それではいつから「天正十四年六月二十四日の木曽川洪水」が国界の変動理由になったのだろうか。また、この「六月二十四日」という日付はどこから生じたのだろうか。その端緒は『往古以来三川出水被害状況』という文書にあるようだ。『岐阜県災異誌』(1965) によれば、これは岐阜測候所 (現在の岐阜地方気象台) による明治24年刊の稿本とみられ、その概略は同誌にあるものの、原本の直接の参照はかなわない。しかし、同じ岐阜測候所による『再版 美濃気候編』(1914) には、附録として「美濃往古以来ノ天災地変概録」(『美濃国往古ヨリノ天災地変概録』) が収録されており、上述の概略と一致する内容が含まれる。この附録にはほかの「天災地変」も混在するが、洪水に関する記述は末尾に地名の新旧対照表が添えられている点からも、『往古以来三川出水被害状況』に拠るものとみていいだろう。

では、その「美濃往古以来ノ天災地変概録」がどう語っているのかといえば、「天正十四年丙戌年六月二十四日」に「大洪水木曽川通、各務郡前渡以西、現今ノ河道ヲ変ジ、砂石ヲ押出シ、沿道各村ヲ害シ、高須輪中ハ木曽、揖斐ノ二川漲溢シ、平水ヨリ高キコト二丈余トナリ、堤塘悉ク沈没シ、破壊百八ケ所アリ。此洪水後木曽川筋ヲ以テ濃尾両国ノ境トナス」とあり、「此洪水後」以降には傍点が振られている。この記述は『岐阜県治水史 上』(1953) を筆頭に、のちの市町村史などの地方誌へ、無批判のまま三次・四次的に継承されていくことになる。

しかし、天正年間の記録でこれほど細かな情報が残るのすれば日記類を除いて考えられないが、現存する同時代の史料にこれに該当する記述は見当たらない。仮に失われた日記に記されていたとしても、近地の当事者によるものであれば、扱われる地理的な範囲は狭く、地名も限定される。逆に遠地の記録であれば、「美濃」「尾張」の単位で漠然と集合的に把握されるのが普通で、まして「前渡」や「高須輪中」が登場するはずもない。とすれば、これは後からさかのぼって想像しただけのものではないだろうか。

そもそも、この描写は沖積平野における河川の特性からいっても不自然に感じられる。決壊・溢水した水は面的に広がることはあっても、激しい流れが線的に突き進むことはあり得ない。「此洪水後木曽川筋ヲ以テ濃尾両国ノ境トナス」という記述も、当時の緊迫した領有権争いの実態から見れば、お伽話と同じ発想であって現実味がない。

「六月二十四日」という具体的な日付も、この「美濃往古以来ノ天災地変概録」に初めて登場する。何に拠るものかはわからない。しかし、新暦として「八月九日」が併記されていて、これにほかの事象でも不詳であれば「不詳」、推定に過ぎなければ「?」が添えられているなども手伝って、この日付は奇妙な信頼性と説得力を持っている。これと、やはり詳細で具体的な本文であることも相まって、十分に精査されることもなく受け容れられ、三次・四次的に流布して定着してしまったというのが、この「六月二十四日」の実態なのだろう。

新流路の影響

木曽川の新流路が国界の変動に影響を与えたのは事実といえる。小牧・長久手の戦いの戦前・戦中の状況はすでにまとめたとおりであり、秀吉 (美濃) の前線は明らかに新流路まで前進している。これがそのまま反映されたのが変動後の国界なのだから、新流路は影響を与えている。また、これは以下の史料からも確かめられる。これは、天正10年(1582) 8月11日付で秀吉から丹羽 (これずみ) 長秀へ送付された書状 (専光寺所蔵文書)※2である。

尾濃境目の儀につきて承りそうろうごとく、三七殿より此方へも仰せ越されそうろう間、以来迄、仰せるる事これ無きようにもっともに候間、大河切、しかるべく存ずる事にそうろう

尾濃境目之義ニ付而如承候、三七殿より此方へも被仰越候、以来迄被仰事無之様ニ尤候間、大河切可然存事候

専光寺所蔵文書

これによれば、秀吉は、事前に長秀から聞いていたとおりに信孝 (三七殿) が尾張・美濃の国界について申し入れてきたことについて、二度と不平不満を言わせないように、ここは「大河」を境界線として決着させてしまうのが、いちばん妥当な方法と思う、と長秀に回答している。文脈からこの決定は信孝が望む内容のはずであり、美濃の信孝が満足するのは新流路が境界となって美濃の領分が広がることである。つまり、ここでも新流路が境界認識に影響を及ぼし、それがのちに国界にへ反映されている。

なお、ここで「大河」と表現されていることからも、新流量には相応の流量があったことがわかる。つまり、洪水によって急に新流路ができあがったかのような描写は、この事実からも明確に否定される。

注釈

データシート (織豊期)

データシート (濃尾平野: 尾張・美濃国界)
変動地域濃尾平野
要因戦国期~織豊期の軍事勢力による支配地域化、および豊臣政権によるその承認
曖昧化の時期戦国期~織豊期
変動の確定時期天正17~18年(1589~1590)

更新履歴

内容

:

  • 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。

:

  • 『国絵図と国界』の一部として修正。

:

  • 同、新規作成。