ここでは、織豊期から江戸初期にかけて発生した上野・武蔵国界 (国境) の変動と、その変動エリアである烏川付近について分析しています。
そもそもどこか?
変動の舞台は、現在の埼玉県 上里町・本庄市・深谷市・熊谷市のそれぞれ北部にあたり、地形的には利根川沿岸の低地 (氾濫原) である。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。
天保郷帳・国絵図の村々
変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が推定される変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界である。『天保武蔵国絵図』で示せば、以下の部分である。

注釈
要因と経過
変動エリアは、江戸期においては武蔵国の児玉・榛沢・幡羅 3郡のそれぞれ北部にあたる。このうち児玉郡 (対岸は上野国 那波郡) の変動理由について、『上野国志』※1は烏川が寛永年間の洪水で流路を北に移したことによるという。
武州 児玉郡 都島・山王堂・宿仁手・沼和田等、寬永の始めには那波郡に属す。寬永中、洪水にて烏川北に徒りてより武州に隷す
武州児玉郡都島山王堂宿仁手沼和田等寬永ノ始メニハ那和郡ニ属ス寬永中洪水ニテ烏川北ニ徒リテヨリ武州ニ隷ス

しかし、河川の流路が変わったからといって、国界までが変動するわけではないことは、『濃尾平野: 尾張・美濃・伊勢国界 (国境) の変遷』で見たとおりである。地形の変化は支配の変容に影響を及ぼす要因に過ぎず、また、洪水によっていきなり河川の流路が一変したかのような描写も短絡的というしかない。
地形に着目すると、前述のように当地は利根川沿岸の低地 (氾濫原) にあり、その利根川も乱流地帯にある。現在でも中洲の発達が著しいが、近代的な治水が行われるまでは、網の目状に中洲を発達させながら分流・合流を繰り返していた。これは、断片的に散在する自然堤防や流路跡と、「島」の付く地名の分布からも明らかといえる。このような景観を踏まえれば、本流といえる流路が長い時間を掛けて変化し、これが上野・武蔵の支配域に影響を与えたというのが実際のところだろう。
この地域の中世を概観すると、中下流部の榛沢郡と幡羅郡には、新田庄が展開された。各村の初出をみると、横瀬村は文永5年(1268)『得川頼有譲状』※2、中瀬村 (古くは小角郷)は仁安3年(1168)『新田義重置文』※3である。
49. とくかわのかう (得川郷)・19. よこせのかう (横瀬郷)
49. と𛀬か𛄊𛂜かう・19. よこせのかう
①にたのみさう (新田御庄) ②おうなつか (女塚) ③えたかみしも (江田上下) ④たなか (田中) ⑤おおたち (大舘; 大館) ⑥かすかわ (糟川; 粕川) ⑦こすみ (小角) ⑧をしきり (押切) ⑨いてつか (出塚) ⑩せらた (世良田) ⑪みつき (三木; 三ツ木) ⑫かみいまい (上今井) ⑬しもいまい (下今井) ⑭かみひらつか (上平塚) ⑮しもひらつか (下平塚) ⑯きさき (木崎) ⑰丁ふくし (長福寺) ⑱たこう (多古宇; 高尾) ⑲やきぬま (八木沼)
①に𛁠𛂜みさう ②𛀕う𛂅𛁭𛀙 ③𛀁𛁠かみ𛁈も ④𛁠𛂅𛀙 ⑤𛀕ヽ𛁠ち ⑥𛀚𛁏か𛂞 ⑦こ𛁏み ⑧をしき𛃲 ⑨いて𛁭𛀙 ⑩せ𛃰𛁠 ⑪み𛁭き ⑫𛀙みい𛃄い ⑬𛁈もい𛃄い ⑭かみひ𛃰𛁭𛀚 ⑮𛁈𛃚ひ𛃰𛁭𛀚 ⑯きさき ⑰丁ふ𛀬し⑱𛁠こう ⑲𛃝きぬま
また、高島村は元久2年(1205) 『将軍源実朝下文案』※4、石塚村は建保3年(1215)『将軍(源実朝)家政所下文案』※5に初めて現れる。
小島村については、康正年間(1455~1457)頃と推定される『新田庄内岩松方庶子方寺領等注文』※6が初出となる。
これらの村は、以後も新田庄として経過する。しかし、『新田庄内岩松方庶子方寺領等注文』と同様に康正年間(1455~1457)頃と推定される『岩松持国知行分注文』※7には、上野国 新田荘の高島郷と横瀬郷 (近世 武蔵国 榛沢郡の高島村・横瀬村) について「彼二ケ所依爲河向御敵知行」と付記されている。つまり、この 2郷は、この時点ですでに本流とみなせる流路の向こう側 (南岸・武蔵国側) に存在し、かつ支配がおよばなくなっていた。
また、永禄7年(1564)『武田信玄書状写』※8には以下のように書かれ、久々宇村は本庄に連続する地域として (または本庄領の久々宇村として) 武蔵国とみなされている。 何敵地之麦作悉苅執、和田・天引・高田・高山江籠置、倉賀野・諏訪・安中之苗代薙払、其上武州本庄・久々□迄放火
さらに、天正8年(1580)『北条氏邦印判状』※9にも以下のように書かれ、仁手村・宮古島村は、金窪村や五十子村 (近世 児玉郡 東五十子村・西五十子村) など、武蔵国の郷村とともに一体的に把握されている。
栗崎・五十子・仁手・今井・宮古嶋・金窪、かんな川境彷示ニ可取之候、然者、深谷御領分榛澤・沓かけ幷あなし・十條きつて、しほ荷おさへ候事
これらの史料からわかるのは、網の目状に中洲を発達させながら分流・合流を繰り返していた複数の流路のうち、南部は上流から運ばれた砂礫によって流れが滞るようになり、武蔵国の勢力が容易に奪い取れるようになっていた、ということだ。
また、この境界認識が後北条氏にもあったことは注目に値する。『大神君関東御入国知行割』によれば、天正18年(1590) の関東入国後、徳川家康は「北条衆持城領主跡」のうち「武州本庄 壱万石」を小笠原信嶺に与えたという。『大神君関東御入国知行割』は扱いが難しい史料ではあるものの、少なくともこのとき後北条氏の領域認識が継承され、のちに固定された、と考える上では参考になるのではないだろうか。

その時期については、史料の不足から明らかにはできないが、『上野国志』は寛永年間(1624~1644) としており、これを積極的に否定する理由はない。この時期は、『葛飾郡: 下総・武蔵国界 (国境)の変遷』で言及した葛飾郡の分割や、『高椅: 下総・下野国界 (国境)の変遷』で言及した高椅地域で国界が変動した時期でもある。同様に検地の過程で国郡が整理され、その結果が正保国絵図・郷帳に反映されたと推定するのが妥当だろう。
注釈
正木文書・長楽寺文書
正木文書と長楽寺文書は、どちらも新田庄に関係する重要な史料である。正木文書は岩松氏に関係する文書群であり、南北朝期に新田氏の本家に代わって岩松氏が台頭する過程や、室町期の新田庄における支配構造などを知るための貴重な記録を伝える。「正木」は江戸期に本文書群が集成・整理される過程に由来するものであり、内容とは関係しない。長楽寺文書は長楽寺 (群馬県 太田市 世良田町に現存、世良田山 長楽寺) に伝わる文書群であり、鎌倉幕府・新田義貞・足利尊氏・鎌倉公方の発給文書のほか、長楽寺に関係する古文書など、重要な文書を数多く含んでいる。
すでに紹介した文永5年(1268)『得川頼有譲状』、仁安3年(1168)『新田義重置文』、元久2年(1205)『将軍源実朝下文案』、建保3年(1215)『将軍(源実朝)家政所下文案』、および康正年間(1455~1457)頃と推定される『新田庄内岩松方庶子方寺領等注文』と『岩松持国知行分注文』は、正木文書に含まれる。『新田義重置文』(および『新田義重譲状』) は長楽寺文書にも含まれ、かつこちらが原本である (ただし、本稿で参照している正木文書・長楽寺文書は、全体が国立公文書館所蔵の写本)。長楽寺文書には、ほかに以下の寺領注文・目録 (観応3年(1352)『長楽寺寺領注文』※1、貞治4年(1365)『長楽寺住持了宗寺領注文』※2、および明徳3年(1392) と推定される『長楽寺寺領目録』※3) が含まれ、これらによって新田庄の領域を知ることができる。正木文書の『新田庄知行分目録』※4もあわせて示す。
注釈
更新履歴
内容
:
- 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。
:
- 『国絵図と国界』の一部として追補。
:
- 同、新規作成。












