ここでは、江戸初期にかけて発生した上野・下野国界 (国境) の変動と、その変動エリアである桐生川付近について分析しています。

そもそもどこか?

変動の舞台は、現在の群馬県 桐生きりゅう市のうち菱ひし地区にあたる部分である。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

全体
Fig.133 桐生川 (上野・下野国界): 江戸初期
Fig.133 桐生川 (上野・下野国界): 江戸初期
詳細
Fig.159 桐生川 (上野・下野国界): 江戸初期
Fig.159 桐生川 (上野・下野国界): 江戸初期
天保郷帳・国絵図の村々
近世 下野国 足利郡※1
近世 下野国 安蘇郡※1
近世 上野国 山田郡※18

変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が推定される変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界である。『天保下野国絵図』で示せば、以下の部分である。

Fig.351 天保下野国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.351 天保下野国絵図 (国立公文書館所蔵)
注釈

要因と経過

『天保下野国絵図』に上かみ菱びし村・下しも菱びし村・小お友とも村として含まれることから自明なように、菱地区は江戸期、下野しもつけ国として把握された。上野こうずけ国との境界に描かれているのは桐生川である。

しかし、その生活圏は江戸初期から桐生川の対岸 (右岸) と一体的であり、これは菱地区が現在、栃木県 (下野国に相当) ではなく、群馬県 (上野国に相当) の桐生市を構成することからもわかる。そもそも、桐生川は移動を妨げるほどの規模とはいえず、そこに境界が設定された合理的な理由を地形に見出すことは難しい。

史料に目を向ければ、「菱」という地名がはじめてあらわれるのは、文ぶん明めい4年(1472) の『旦那だんな売うり券けん』である※1。この文書では、御師・芝定俊が「菱・桐生両里 (ひし・きりう兩里)」に持っていた「上野国那智之師職 (上野國那智之師識)」を南光坊に売却しており、菱・桐生が一体的に把握され、かつ上野国として認識されていることがわかる。

また、慶長3年(1598) の『桐生領高辻』※2では「上菱村」「下菱村」が「桐生領」に含まれ、さらに同年の上菱村検地帳の表紙には「上州桐生領上菱村御検地帳」とある※3。

しかしその後、上菱村・下菱村は『正保下野国絵図』と対応する『同郷帳』(東野地誌) に足利郡として含まれ、遅くとも慶安元年(1648) までに国界の変動があったことがわかる。

正保下野国絵図 (全体)
Fig.777 正保下野国絵図 (中川忠英旧蔵・国立公文書館所蔵)
Fig.777 正保下野国絵図 (中川忠英旧蔵・国立公文書館所蔵)
正保下野国絵図 (拡大)
Fig.546 正保下野国絵図・郷帳
Fig.546 正保下野国絵図・郷帳

寺社に宛てられた朱印状や検地帳における国郡認識も同様であり、慶安2年(1649) に下菱村の泉竜院に宛てられた朱印状には「野州梁田郡桐生領下菱村泉龍院領」とあり※4、寛かん文ぶん6年(1666) に作成された上菱村と下菱村の検地帳の表紙にも「野州梁田郡桐生領上菱村御繩水帳」「野州梁田那桐生領下菱村御繩水帳」と記されている※4。

この変動の要因ははっきりしないが、背景として、この地域の国郡認識に相当の混乱があったことは確かなようだ。

前述のように『正保下野国絵図』『同国郷帳』に上菱村・下菱村は含まれているが、その後の寛文8年(1668) に作成された『寛文上野国絵図』と対応する『同国郷帳』にも両村は含まれ、再び上野国の一部として把握されている。一方で、その直後といえる延えん宝ぽう元年(1673) に作成された検地帳の表紙には「野州梁田郡上菱村検地水帳」とあり、これに従うと三たび国界に変動があったことになる。なお、天てん和な3年(1683) の免めん割わりにも「野州梁田郡上菱村」とある※4

寛文上野国絵図 (全体)
Fig.775 寛文上野国絵図 (中川忠英旧蔵・国立公文書館所蔵)
Fig.775 寛文上野国絵図 (中川忠英旧蔵・国立公文書館所蔵)
寛文上野国絵図 (拡大)
Fig.551 寛文上野国絵図・郷帳
Fig.551 寛文上野国絵図・郷帳

実際には、これは『寛文上野国絵図』(および『同国郷帳』) における誤認と考えられる。『寛文上野国絵図』は、上野国を対象に個別に作成された国絵図であり、全国的に作成されたものとは経緯が異なる。つまり、先行する正保国絵図では、国界付近の描写に関して隣国相互の確認が求められたため、『正保下野国国絵図』に上菱村・下菱村が含まれている以上、『正保上野国絵図』(現存せず) にも両村が描かれたとは考えられない※5。しかし、純粋に上野国の現状を確認する目的で作成されたために、確認が厳密ではなく、結果として本来的な国郡認識が反映されてしまった、というのが実際のところなのではないだろうか)。いずれにせよ、これは国郡認識の混乱を示している。

また、国絵図・郷帳以外の一連の史料 (検地帳・免割・朱印状) にも混乱は存在する。各史料では菱地区 (上菱村・下菱村) は一貫して下野国の「梁田郡」として把握されている。しかし、国絵図・郷帳において、渡良瀬川の本流と分流 (上野・下野国界に重なる流路であり、古代の本流) に挟まれた地域が簗田 (梁田) 郡であり、渡良瀬川本流より北に位置し、直接接してもいない菱地区は「足利郡」に含まれている。つまり、まるで飛地のように梁田郡として認識されていたことや、それがまったく訂正されないまま一貫しているという事実それ自体も、混乱をあらわすものといえる。

なお、中世以降の梁田郡と足利郡の領域 (郡域) はきわめて曖昧である。これは梁田郡に成立した簗田御厨がその後、足利郡の足利庄に吸収され一体化したことに起因する。梁田郡単体で考えると、間に足利郡が挟まるため菱地区は飛地となるが、一体化した「足利・梁田郡」と捉えれば連続的である。あるいは同地が梁田郡の飛地か辺境であるかのように把握されていること自体が、すべての経緯を物語っているのかもしれない。足利庄を地盤とする在地勢力がその領域を菱地区まで広げた結果だとすれば、当地が本来の国郡認識に反して下野国として把握されるようになったことも、ある程度は説明できるのではないだろうか。

在地における国郡認識

延宝元年(1673) に作成された上菱村検地帳 3冊のうち、3冊目の表紙には以下のように記載されている※6。

延宝元年

三冊之内三番帳

野州梁田郡上菱村検地水帳

野州足利桐生領上菱村検地水帳

元禄十四年巳十一月下嶋甚右衛門様より足利郡被仰渡候。

丑十月

延宝元年(1673) 上菱村検地帳 (3冊目)

これによれば、元禄14年(1701) に役人 (幕府代官) からの通達があってはじめて「野州梁田郡」という従来の表記が「野州足利桐生領」へと書き改められたことがわかる。この元禄14年(1701) は、翌年 12月までに完成する元禄国絵図の作成期間にあたる。おそらく、絵図の作成過程で「梁田郡」ではおかしいことに気づき、ようやくこの段階になって在地へと伝えられた、というのが実情なのだろう。

なお、同様に国界の変遷を経験した高椅地区でも、同地区に所在する高椅神社 (高椅大明神) の国郡認識が改まるのは元禄9年(1696) であり、時期は似通っている。また、高椅地区の寛永14年(1637) の中島村検地帳に、本来の下総国 結城領から分割された記憶を留める「下野国結城領中嶋村」との記載があるように、上菱村の検地帳にも「野州足利桐生領上菱村」と記されている点も興味深い。つまり、ここでも「野州足利」と下野国 足利郡を冠称しながらも「桐生領」を名乗っており、国界が変動した記憶を留めている (高椅地区については『高椅: 下総・下野国界 (国境) の変遷』を参照)。

注釈

正保下野国郷帳

正保下野国郷帳は、『正保下野国絵図』に対応する下野国郷帳であり、東京大学史料編纂所で『東とう野や地誌』としてオンライン公開されている。この史料名『東野地誌』は表紙題簽の記載による。奥書には慶安元年(1648) 3月の日付 (『慶安元年戌子三月五日』) が記載されている。

正保下野国郷帳 (東野地誌 上)
Fig.560 正保下野国郷帳 (東野地誌・部分・東京大学史料編纂所所蔵)
Fig.560 正保下野国郷帳 (東野地誌・部分・東京大学史料編纂所所蔵)
正保上野国郷帳 (東野地誌 下)
Fig.561 正保下野国郷帳 (東野地誌・部分・東京大学史料編纂所所蔵)
Fig.561 正保下野国郷帳 (東野地誌・部分・東京大学史料編纂所所蔵)

寛文上野国郷帳

寛文上野国郷帳は、『寛文上野国絵図』に対応する上野国郷帳であり、国立公文書館デジタルアーカイブで公開されている (#4269035、#4269036、および#4269037) 。表題は「上野国郷帳」で、奥書には寛文8年(1668) 11月の日付 (『寛文八年申ノ十一月日』または『寛文八年申十一月日』) が記載されている。

寛文上野国郷帳 (#4269035)
Fig.566 寛文上野国郷帳 (部分・国立公文書館所蔵)
Fig.566 寛文上野国郷帳 (部分・国立公文書館所蔵)
寛文上野国郷帳 (#4269036)
Fig.567 寛文上野国郷帳 (部分・国立公文書館所蔵)
Fig.567 寛文上野国郷帳 (部分・国立公文書館所蔵)
寛文上野国郷帳 (#4269037)
Fig.568 寛文上野国郷帳 (部分・国立公文書館所蔵)
Fig.568 寛文上野国郷帳 (部分・国立公文書館所蔵)

データシート

データシート (桐生: 上野・下野国界)
変動地域桐生川
要因不明 (混乱とその是正)
曖昧化の時期慶長3年(1598) 以降
変動の確定時期元禄年間(1688~1704)

(参考) 県境の変動 (菱村): 昭和34年(1959)

昭和34年(1959)※1、栃木県 足利郡 菱村は、群馬県 桐生市に編入された。この「菱村」は菱地区 (近世 上菱村と下菱村、および江戸前期分村の小友村) に相当する。つまり、江戸期は下野国として把握された同地区が、現在は栃木県 (下野国に相当) ではなく群馬県 (上野国に相当) の桐生市を構成する経緯そのものである。

詳細
Fig.157 (参考) 桐生川 (上野・下野国界): 昭和34年(1959)
Fig.157 (参考) 桐生川 (上野・下野国界): 昭和34年(1959)
全体
Fig.135 (参考) 桐生川 (上野・下野国界): 昭和34年(1959)
Fig.135 (参考) 桐生川 (上野・下野国界): 昭和34年(1959)

菱地区は、江戸期を通じて明らかに桐生の経済圏にあり※2、その構造は近代に入っても変わらなかった。特に、現在一体的な市街地を形成している南部 (近世 下菱村・小友村) において、その傾向は顕著である。一方、市街地ではない北部 (上流部。近世 上菱村) も、狭い谷筋に民家が密集するなかにあって、もはや小河川に過ぎない桐生川に設定された境界は不条理な制約でしかなかったようだ。

ただし、いわゆる「昭和の大合併」において発生した、県境を越えるほかの合併・編入の事例と同様、当地でも栃木・群馬両県の対立に発展し、事態は紛糾を極めた。栃木県が最終的にこれを認めたのは、矢場川村の一部を編入させるという、いわば交換条件が成立してからのことである (矢場川村の編入については『(参考) 県境の変動 (菱村): 昭和35年(1960)』を参照)。

注釈

(参考) 県境の変動 (入飛駒): 昭和43年(1968)

昭和43年(1968)※1、栃木県 安蘇郡 田沼町のうち、飛駒の一部 (入飛駒地区) は、群馬県 桐生市に編入された。飛駒は近世 下野国 安蘇郡の上彦間村、入飛駒地区は近世 下野国 安蘇郡の入彦間村にあたり※2、その包含関係も同様である (『天保下野国絵図』では、入彦間村は『上彦間村之内』と付記され、『同郷帳』には含まれない)。

全体
Fig.180 (参考) 桐生川 (栃木・群馬県境): 昭和43年(1968)
Fig.180 (参考) 桐生川 (栃木・群馬県境): 昭和43年(1968)
詳細
Fig.136 (参考) 桐生川 (栃木・群馬県境): 昭和43年(1968)
Fig.136 (参考) 桐生川 (栃木・群馬県境): 昭和43年(1968)

入飛駒地区は、菱地区の上流部 (近世 上菱村) と同様に桐生川沿いにあり、地理的に群馬県 桐生市と連続していた。この入飛駒地区の編入も、昭和34年(1959) の菱地区編入に触発されたものとみられる。なお、その菱地区編入では群馬県 矢場川村の一部を栃木県に編入させることが交換条件となっていたが、入飛駒地区についても、群馬県 太田市 高瀬地区の栃木県編入が交換条件となっていた。しかし、高瀬地区の運動が沈静化へ向かうなか、栃木県の姿勢も軟化し、これに「昭和の大合併」における疲弊も重なり、編入は実現した※3。

注釈

更新履歴

内容

:

  • 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。

:

  • 『国絵図と国界』の一部として修正。

:

  • 同、新規作成。