ここでは、江戸前期に発生した下野・上野国界 (国境) の変動と、その変動エリアである渡良瀬川付近について分析しています。
そもそもどこか?
変動の舞台は、現在の群馬県 館林市と板倉町の北部にあたり、地形的には渡良瀬川の旧本流と現本流に挟まれた低地 (氾濫原) である。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。
天保郷帳・国絵図の村々
変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が推定される変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界である。『天保上野国絵図』で示せば、以下の部分である。

注釈
要因と経過
変動エリアの状況については、『正保下野国絵図』を見るとわかりやすい。
上に示すように、下野国のうち梁田郡の全体と安蘇郡の一部 (南東端) は、渡良瀬川の流路よりも南に位置している。ただし、梁田郡の大部分では南を矢場川が流れるため、上野国と地続きになっているわけではない。一方、それ以外の部分は矢場川よりもさらに南にあるため、地形的な飛地となり、かつ上野国とは地続きになっている。これは安蘇郡の一部についても同様であり、同部分は横断する渡良瀬川によって切り離され、やはり飛地であり、かつ上野国とも地続きである。
変動エリアは、まさにこの梁田郡の矢場川以南、および安蘇郡の渡良瀬川以南であり、前者には下早川田・足次・上早川田・傍示塚・木戸の 5村、後者には除川・西岡・西岡新田の 3村が含まれる。
以下に『寛文上野国絵図』を示す。各村が邑楽郡に含められていることがわかる。
なお、ほかに北大島村・大新田村も確認できるが、この 2村は『正保下野国絵図』には描かれていないことから、この『寛文上野国絵図』が作成された時期に成立したものとみられる。
『寛文上野国絵図』は、上野国を対象に個別に作成された国絵図である。『厳有院殿御実紀』の寛文4年(1664) 6月24日の記事によれば、このときに作成が指示された。また、同時に作成された『寛文上野国郷帳』の奥書日付にしたがえば、寛文8年(1668) までに完成したとみられる。個別に作成されたのは、寛文元年(1661) に徳川綱吉が館林に入り、周辺の所領が広範囲に再編されたためと考えられるが、明暦の大火で失われた『正保上野国絵図』の再作成 (代替) も兼ねていたのではないかと推定される。

『桐生川: 上野・下野国界 (国境)の変遷』で指摘しているように、この『寛文上野国絵図』『同郷帳』では、直前の『正保下野国絵図』・『同郷帳』に含まれる下野国 足利郡の上菱村・下菱村が上野国 山田郡として含まれる混乱が存在する。上菱村・下菱村については、本来の国郡認識が誤って反映されてしまった結果と考えられるが、両村と先にあげた下早川田・足次・上早川田・傍示塚・木戸 5村と除川・西岡・西岡新田 3村は、すべて館林藩であることからいえば、同藩における国郡認識が影響した可能性も高い。
正保国絵図では、国界付近の描写に関して隣国相互の確認が求められたため、村単位で重複が発生したとは考えられない※1。また、寛文4年(1664) のいわゆる寛文印知では、中世に乱れた郡の再編 (改称・統合) が実施され、全国的に再編が進行した。したがって、寛文年間に作成された国絵図において、藩特有の国郡認識が反映されるということも、通常であればあり得ない。
それにもかかわらず、同藩における国郡認識が影響した可能性が高いといえる根拠としては、綱吉が文字どおり「別格」だった点があげられる。寛文印知では、御三家の徳川光義 (光友、尾張)、徳川頼宣 (紀伊)・徳川光圀 (水戸) のほか、徳川綱重 (甲府) と徳川綱吉 (館林) も発給がなかったことが知られる。領知判物の発給が行われるのは、臣従する立場にあるからであり、身内はその枠組みには入らない。この結果、寛文印知の前後でも郡の乱れは改称されず、是正されたのは元禄国絵図のとき、というのが実態といえる。
なお、上菱村・下菱村については、その後の国絵図・郷帳では下野国に含められ、『正保下野国絵図』『同郷帳』の国郡認識に戻された。一方で、下早川田などの 8村は『寛文上野国絵図』『同郷帳』の国郡認識が継承され、そのまま確定している。この違いの背景としては、前者 (上菱村・下菱村) が在地では一貫して下野国 梁田郡※2として把握されたことに対し、後者 (下早川田などの 8村) にはそのような痕跡がない点があげられる。ただし、この背景を踏まえてどのような経緯・判断があったのかについてはわからない。
変動前の国界
『館林市誌 歴史編』(1969) に引用されている延享5年(1748) 『日向村田方畑方反別石高覚』※3には以下のように記されている。
矢場川ノ儀ハ、江川ヨリ足次前之候所、寛文四甲辰年、木戸村ヨリ上早川田雷電裏迄新川ニ堀回シ、然時ニ木戸・足次・傍示塚・上早川田迄、先年野州梁田郡ニ、是ヨリ下離村迄安蘇郡ニ候所、寛文五年巳年より新上州邑楽郡改
この記述によれば、寛文4年(1664) に木戸村から上早川田村の「雷電裏」(雷電神社裏) まで「新川」を掘削し、それによって翌5年(1665) より「新上州邑楽郡」にあらたまったという。ここでは途中経過が省略されているが、「新川」の前提となる旧流路が廃され、各村が上野国と地続きになったため、という論理だろう。
この「新川」は、矢場川のうち多々良沼からの支流が合流する常楽寺 (館林市 木戸町) 付近から下流の区間を指している。しかし、当該区間を地形図で確認すると、その形状は沖積地特有の自由蛇行そのものあり、人工的に開削したものとは考えられない。
一方、『群馬県邑楽郡誌』(1917)・『多々良村郷土誌』※4に引用されている『木戸村由来記』※5には、以下のように記されている。
抑下野国梁田郡城戸村※6の由来は暦応年中足利将軍御治世の節、遠田輪と申当所の南北に河一瀬あり。然る所、南の河筋は水丈浅くして自然と埋り、北の一瀬となり。当時南川筋は跡田畑となる異名川途と申候。
これによれば、もともと南北に 2つあった流路のうち、南は堆積にともなって自然に埋まってしまったという。「暦応年中」という縁起や由緒に特有の年次の信憑性はともかく、河川の自然な推移を的確に描写しているのはこちらだろう。もちろん、『日向村田方畑方反別石高覚』が伝えるような土木作業が行われた可能性も否定できない。しかしその場合でも、南の流路を締め切った上で、北の流路 (短絡部) を浚渫・拡幅した程度と考えるのが自然である。なお、同『覚』は梁田郡と安蘇郡を厳密に区別しており、不正確な史料というわけではない。とはいえ、江戸中期の在地史料であることや、河川流路の変化を直接国界の変化に結びつけていることも踏まえれば、結果から類推している面もまた否定できない。
国界の厳密な変動時期
当地における下野・上野国界の変動時期について、『上野国郡村誌』では、漠然と寛文年間(1661~1673) としている場合もあるが (冒頭および下早川田・大新田・足次・上早川田・傍示塚各村の項目)、寛文8年(1668) に限定している場合もある (除川・北大島・木戸・西岡・西岡新田の各村)。後者は『寛文上野国絵図』・『同郷帳』の成立時期に一致しており、公的に国界の変動を確認できる時期に整合している。
一方、『群馬県邑楽郡誌』(1917) では、寛文元年(1661) に限定する記述が多く (西谷田村・渡瀬村)、ほかは寛文8年(1668) としているか、結論を保留している (前者は大島村、後者は多々良村)。なお、各村は当時 (大正期) の単位であり、江戸期の単位でいえば、北大島村と木戸村を除くすべての村が寛文元年(1661) に限定している。
この寛文元年(1661) という年は、館林に徳川綱吉が入った年である。この年に変動エリアに含まれる各村 (下野国 梁田郡の下早川田・足次・上早川田・傍示塚・木戸の 5村と安蘇郡の除川・西岡・西岡新田の 3村) が「上野国 邑楽郡」として綱吉に与えられた可能性自体は否定できない。しかし、江戸前期の国郡認識の未熟さからいえば、よりあり得るのは、上野国の館林藩領に組み込まれたことをもって国郡も変更され上野国になった、という誤認だろう。またそもそも、この『群馬県邑楽郡誌』における記述は、明治期の『上野国郡村誌』から翻っており、これに大正という時代背景を加味すれば、何らかの偏向が作用した結果といえないだろうか。
渡良瀬川本流の流路
現在の渡良瀬川は、中~下流以降、栃木県 (下野国に相当) と群馬県 (上野国に相当) の県境付近を流れているが、沖積平野に出て桐生川を合わせる付近からは県境を離れ、栃木県内を貫流している。代わりに県境 (国界) 付近を流れているのは矢場川であり、また前述のように、『正保下野国絵図』・『同郷帳』までの下野・上野国界は矢場川の分流跡である。このため、かつての渡良瀬川は、この流路跡を含む矢場川の流路を本流としていたとみなされている。
流路変遷の時期としては、どちらも「大洪水」の記録から推定し、『近代足利市史 第1巻 通史編』(1977)は鑁阿寺に残る記録などから永禄5~8年(1562~1565) とし、『太田市史 通史編 自然』(1996)は『近代足利市史』を肯定しつつ、『鶏足寺世代血脈』※7の記述から応永34年(1427) の可能性も提示している。
ただし、『近代足利市史』が「何段階かの中間的な経過を経ながら徐々に移行していったと考えられる」とし、『太田市史』が「応永三十四年には既に足利市街地方向へ通じていたことになる。しかし、矢場川筋の河道と新たな足利方向の河道の両方に分流し、どちらが主流とも断定しかねる状態が永禄年間まで続いていたのではないだろうか」とするように、その移行は漸次進んだと考えるのが正しい。また、分流部は台地と台地の狭窄部から広い沖積平野へ流れ出す部分にあたり、河川は扇状地のようにどの方向へも流れ、その後は乱流を極める性質を持っている。実際、治水地形分類図からはさまざまな流路跡を見出すことができる。渡良瀬側本流のかつての流路にしろ、近世以降の流路にしろ、あくまでも特定の時点において認識され、あるいは固定化された流路に過ぎない、と捉えるのが自然だろう。
なお、『近代足利市史』『太田市史』とも断定はせず、その論考は慎重である。この点、より古い時代の論考が権威めいて独り歩きしてしまった木曽川本流の事例とは異なり、興味深い。特に裾野の狭い地方史においては、古くからの研究があればよいというわけではないことを示す好例ともいえる (木曽川本流の事例について『濃尾平野: 尾張・美濃・伊勢国界 (国境) の変遷』を参照)。
注釈
更新履歴
内容
:
- 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。
:
- 『国絵図と国界』の一部として新規作成。









